前 奏
招 詞   詩編68編20~21節
讃 美   新生 55 父の神よ 夜明けの朝
開会の祈り
讃 美   新生300 罪ゆるされしこの身をば
主の祈り
讃 美   新生348 きよき所を
聖 書   ローマの信徒への手紙8章1~11節
                   (新共同訳聖書 新約P283)

「生かされて」                  ローマの信徒への手紙8章1~11節

宣教者:富田愛世牧師

【ふりかえり】

先週と今週は、同じ8章1~11節を読んでいただきました。2回に分けて話すべきか、途中で切って2回分にするか、迷ったのですが、うまく切ることができそうもなかったので2回に分けることにしました。

前回は1節にある「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」という結論を中心にして、「罪と死の法則」の中にあった私たちが「霊の法則」によって解放されたということを見てきました。

少し振り返ってみるなら、ローマの信徒への手紙6章23節で語られるように「罪の支払う報酬は死」でした。しかし、続きを読むと、そこには「しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」とあります。

罪のゆえに死ぬしかなかった私たちに対して、神が与えてくださる賜物は「キリスト・イエスにある永遠の命」なのです。これは神からの賜物なので、無条件に与えられるのです。これが8章では「霊の法則」と呼ばれているのです。

さらに、同じローマの信徒への手紙3章23節では「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」しかし24節では「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」とあります。

神の栄光とは永遠の命に至る救いで、私たちは自力ではこの救いを手に入れることはできません。つまり、罪と死の法則から逃れることはできないのですが、霊の法則によって罪と死から解放されたのです。

そのため神のひとり子であるキリストが、ただの無力な人間として、この世に遣わされ、ガリラヤという貧しい地域で、貧しい地の民と呼ばれる人々と生活し、喜びや悲しみ、そして、苦しみを共にし、最後には信頼する弟子たちに裏切られ、十字架で死なれたのです。

このイエスを信じ、イエスが共にいてくださることを喜ぶことによって命と平和の思いが、私たちの内に沸き起こるということでした。

【生かされて】

 今日は同じ箇所から「生かされて」というテーマで見ていきたいと思っています。

「生かされて」ということなので、自発的に生きていくということではなく、何かによって生かされるということを見ていきたいと思っています。その前に、まずは人間が生きるために必要なものがあると思いますが、何が必要でしょうか。

これも単純なようですが、概念を共有しなければ難しい質問だと思いました。どういうことかというと、生物学的に生きるために必要なことと、社会学的に生きるために必要なものとでは、内容も意味合いも違ってくるからです。

生物学的に必要なものは、空気、水、光、食べ物、その他にも、いくつかあると思います。これらは人間が生き物として、生きるために必要なものだと思います。

そして、社会学的に必要なものは、とても幅が広くて、ネットで調べると、最初に出てくる多くのものはお金なんですね。現代社会は貨幣経済社会ですから、お金はなくてはならないものなのだと思います。しかし、これもネットでの知識ですが、貨幣としてのお金がいらなくなる社会が、もうそこまで迫っているという見方もあるそうです。

とても現実的な考え方だと思いますが、もう一つ、現実的ですが、お金とは逆の立場にあるようなものとして家族という考え方もあるようです。そして、この延長線上に関係性ということが出てきます。

5節にある「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」と言われる時の「従う」ということも関係性の一つの在り方です。

人が生きる時、何かを支えにし、それに従うことがあります。パウロは肉に従って歩む者は肉の思い、すなわち、死に向かって歩むようになると警告しているのです。これが肉に生かされる人の結末なのです。

私たちが生きるためには、そして、生かされるためには、肉に従うのではなく、霊に従う、つまり、キリストに支配され、従い、結ばれる必要があるのです。

【内に宿る霊】

9節で「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり」とパウロは語ります。どうすれば神の霊が私たちの内に宿るようになるのでしょうか。

それは私たちの努力や精進によって宿るのではありません。もし、私たちの努力や精進によって神の霊が私たちの内に宿るとするならば、努力や精進が足りない場合、神の霊は宿ってくれなくなるというのでしょうか。そうだとすれば、パウロの信仰は根底から崩れてしまいます。

努力や精進することも、決して悪いことではありません。しかし、そのような、何かをしたから、その見返りとしてということではなく、神の意思というものが始めにあり、それが大切なことなのです。

聖書が語る神は愛の神です。ここで語られる愛とは、私たちが持つような、見返りを求める愛ではありません。ギリシア語ではアガペーと言って見返りを求めない、無償の愛を意味しています。

そのような愛を持った神ですから、その自由な意思によって、神の霊は私たちに宿ってくださるのです。

9節をもう一度読んでみましょう。「神の霊があなた方の内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」

霊の支配下にいるということは、キリストとの関係の中で、キリストに従う者となっているということです。そして、キリストに属しているのだ、キリストとの関係を持っているのだと語るのです。

イエスが誕生した時、天の使いは預言者の言葉を用いて「インマヌエル」と語りました。それは神が共にいてくれるということです。イエスにおいて、神は私たちを見捨てないと約束してくださったのです。

【霊を受ける】

10節を見ると「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。」とあります。

今まで何度も「霊」という言葉を読み、私も語ってきましたが、霊という言葉から受ける印象として、どこか超常現象的なものを思い浮かべることが多いのではないかと思います。

しかし、霊とは超常現象的な事柄だけではありません。イエス・キリストを信じるということは、説明のつくことではないので、これこそが霊的な出来事と言えるわけです。

教会では、イエス・キリストを信じた者にバプテスマを授け、バプテスマを受けた者が教会員として共に信仰生活を歩むようになります。

バプテスマとはイエス・キリストを受け入れ、その死と復活の中に与ることです。私たちバプテスト教会では全浸礼と言って、頭に水を降り注ぐだけではなく、全身を水の中に入れます。それは、罪の体が水の中に沈むことによって「死」を意味します。そして、そこから引き上げられることによって「新生」新しい命にあずかることを意味しています。

マタイ福音書3章13節以下に、イエスがヨハネからバプテスマを受けた時の様子が記録されています。イエスがバプテスマを受け、水から上がった時、神の霊が鳩のように降ったとあります。

私たちがバプテスマを受けた時にも同じことが起こっているのではないでしょうか。これによって私たちは霊を受けているのです。霊を受け、霊に従って歩む者は霊に属しますと語られています。

11節の後半には「あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」と書かれています。霊を受け、霊に従う者は、霊に属し、その霊によって私たちは生かされるのです。これが聖書の約束なのです。

讃 美   新生271 光のみ霊
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷  
後 奏