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「神の相続人」 ローマの信徒への手紙8章12~17節
宣教者:富田愛世牧師
【わたしたち】
ローマの信徒への手紙は、他の手紙のようにパウロにとって、行ったことのある場所であったり、会ったことのある人々へ向けて書いたりしたわけではありません。まだ会ったことのないローマにいる信徒に向けて書いているのです。
1章5、6節を読んでみると「5わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。 6この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。」とあるように、まず自己紹介をした上で「あなたがた」という書き方で進めようとしています。
続く8節でも「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」と書いています。
このような書き方が8章11節まで続きますが、12節を見ると「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが」というように、今までとは少し様子が違っています。
ローマの信徒に向けて「わたしたち」という呼びかけに変わっているのです。もちろん、8章11節までにも「わたしたち」という言葉は出てきますが、それはローマの信徒に向けられた言葉ではなく、パウロ自身を含めたクリスチャン一般について「わたしたち」と語っていました。
ここにはパウロが自分に与えられているミッションについて、どのように考え、どのように受け止めているのかという姿勢が現れているように感じます。
パウロに与えられているミッションとは、この12節では「一つの義務があります」という言い方で語られています。それは、わたしたちは皆、神の子であるということ、そして、その良き知らせを一人でも多くの人に伝えたいという思いなのです。一言でいうなら伝道に対する姿勢と言えるかもしれません。
この伝道は個人の事柄ではなく、教会の業であり、信徒、一人一人が等しく担っていくものなのです。
【一つの義務】
ところで、新共同訳聖書には小見出しが付いています。8章に付けられている小見出しは「霊による命」となっています。7章までは「罪と死」がテーマとなっていたわけですから、8章では、死から解放され自由に生きることができるようになったという喜びが語られていくわけです。
罪と死から解放され自由になるということには、責任と義務が伴います。その義務とは12節に書かれているように「肉に対する義務」つまり「死」に向かうものではありません。
13節に「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」とあるように、私たちは「体の仕業」を絶たなければなりません。「体の仕業」とは、ここには直接書かれていませんが、6月19日の教会学校での学びの箇所がコロサイの信徒への手紙3章でした。
5節には「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい」とあります。また、8節には「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい」とあります。これらを絶つという義務があるのです。
しかし、これらを絶ちなさいと言われて、捨て去ることができるなら、何の苦労もいりません。捨て去りなさいと言われても、それができないから、私たちは悩み、苦しむのです。
そのような私たちに対して、神の霊は私たちを肉の束縛から解放してくださったのです。
前回の11節にあるように信仰を告白して救われ、バプテスマを受けた者は「すでに」キリストと共によみがえらされているのです。しかし、現実には「いまだ」永遠の命には与っていないのです。
このような緊張関係の中で、14節にあるように「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」という宣言を受け取ることができるのです。
【アッバ、父よ】
15節を見ると「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」とあります。
私たちはすぐに不安になって、神から離れてしまうのではないか、とか、罪を犯してしまうのではないか、と心配してしまいます。そのような私たちに向けて「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。」と語るのです。もう恐れる必要はありませんと語ってくれているのです。
ここに「神の子とする霊を受けた」とありますが、私たちは教会の中にドップリと浸かってしまっているので、何の違和感もなくこの言葉を受け入れています。しかし、いい大人が「神の子」などと言われても、あまりピンとこないのではないでしょうか。いわゆる世間の常識とは違う常識の中に生きているのかもしれません。
さらに日本語に訳されている聖書では、14節に「神の子なのです」とあり15節にも「神の子とする霊を受け」とあります。同じ「神の子」と訳されている言葉ですが、ギリシア語では違う単語が用いられています。14節は複数形の「子ども」という言葉が用いられ、15節は「養子」という言葉が用いられているのです。
一人ひとりが様々な関係性の中で生きているわけです。そして、すでに存在している私たちが、誰かの子どもとなるためには養子になる必要があるのです。
神の愛は、神を裏切り、自分を神にしようとするような愚かな罪人である私たちを養子として迎えようとするのです。養子として迎えるためには、覚悟が必要だと思います。
神は私たちを養子として迎えるために、覚悟をもって、本当の子どもと同じように愛されようとしているのです。他人行儀で甘やかそうとは思っていないのです。本気で愛そうとするならば、そこには当然のこととして、厳しさも加わっているのです。
【神の相続人】
17節を読むと「もし子供であれば、相続人でもあります」とあります。神の子とされた者は、相続人でもあるというのです。相続人とはどのような人なのでしょうか。
一般的には、ある人の財産を受け継ぐ人のことを指します。実際に相続するのは、その人が亡くなることによって相続するのでしょうが、相続人というのは、そのような財産を受け継ぐ権利を持つ人のことだと思います。
神の相続人という時、神は死なないから、どうやって相続するのかな、などと思ってしまいましたが、生死とは関係なく、神の財産を受け継ぐ者とされたということです。
神の財産とは何でしょうか。それは永遠の命に至る救いということです。さらに、「神の相続人」という言葉の次には「しかもキリストと共同の相続人です」と書かれています。
共同の相続人ということは、同じ条件、同じ権利を持っていると言っても構わないのではないでしょうか。キリストと同じ条件で永遠の命を得ることができるなどと言われると、おこがましい感じがするかもしれません。しかし、その感覚の中に、私たちのキリスト像、イメージがあるのです。
イエスをヒーローのようにイメージしていたとするならば、おこがましいことでしょう。しかし、イエスはヒーローなどではありません。ただの無力な人です。十字架の上で死ぬしかなかったのです。
そして、続く言葉として「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」と書かれています。
私たちはキリストと共に苦しむのです。それは養子かも知れませんが、実の子と同じように神に愛されているから苦しみも与えられるのです。
そして、キリストと共にその栄光をも受けるのです。栄光という言葉からイメージするものは、何か輝かしいものと思われるかもしれません。しかし、キリストの栄光とは十字架です。そして、ここに価値観の逆転があるのです。
讃 美 新生367 神によりて 献 金 頌 栄 新生671 ものみなたたえよ(A) 祝 祷 後 奏