前 奏
招 詞   詩編46章10節
讃 美   新生  4 来りて歌え
開会の祈り
讃 美   新生515 静けき河の岸辺を
主の祈り
讃 美   新生290 主の祈り
聖 書   ヨハネによる福音書14章27節
                 (新共同訳聖書 新約P198)

「空気を読むな」                 ヨハネによる福音書14章27節

宣教者:富田愛世牧師

【平和を実現する?】

 ヨハネによる福音書13章でイエスは弟子たちの足を洗い、最後の晩餐と呼ばれる宴会の席についています。そして18章でゲッセマネの園での祈りの時を持っています。

ということは、14章から17章までは最後の晩餐の席で語り始め、ゲッセマネの園へと出かける直前までに語られた言葉であると考えることができます。

もちろん、福音書に記録されていることは、すべてが時系列的に正確に書かれているという確証はありませんから、もしかすると全く違う時に語られた言葉かもしれません。ただ、ここで大切にすべきことは時系列的に正確かどうかではなく、イエスの活動の最後の時期に語られた言葉として、ここから何を受け取るのかということだと思います。

ここでイエスは「わたしがあなたがたに残す平和は、この世が与えるようなものではない」ということです。この世のものとは違う、イエスの与えてくださる平和とはどのようなものなのでしょうか。

それを考える前に、今日の教会学校での学びの箇所はマタイによる福音書5章9節になっています。残念なことにコロナウイルス感染の急拡大によって、8月末まで教会学校のクラスは休止していますので、礼拝で少し触れようと思いました。

イエスは、その宣教活動の最初期に山上の説教と呼ばれるような、大衆を集めて話しをする、ということをされました。その中で「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と語りました。

これを聞いた人たちは、大きな衝撃を受けたようです。しかし、平和を実現する人は幸いだと言われて、私に実現できるのだろうか?と疑問を持った人たちもいたはずです。現に、私は自分にできるのかな?と自問してしまいます。

マタイによる福音書では、平和を実現しなさいと言われるけれど、実現できないのが、私たちの現実なのではないでしょうか。

【平和憲法】

平和を作りたい。平和を実現したいと願うのは、私たち個人だけではありません。国という大きな集合体においても、平和を実現したいという思いはあると思います。

日本は今から77年前に太平洋戦争に負けました。1937年の盧溝橋事件をきっかけに中国に対する侵略をはじめて、そのまま太平洋戦争に突入したわけですが、敗戦後、この戦争犯罪に対する反省の思いから「平和憲法」と呼ばれる新しい憲法を作りました。そこには戦争をしないために、軍隊を持たないという、現代においても非常に進歩的な条項を第9条として作ったわけです。

もちろん、この憲法が目指す平和とイエスが語る平和が同じかというと、そうではないと思います。イエスの語る平和は、もっと広範囲に及ぶものだと思いますが、まずは「世が与えるような」ものから見ていかなければならないと思います。

この憲法9条で謳われている「平和」とは、いわゆる戦争がない状態を指していると思います。

そして、この平和憲法も、ほったらかしておくならば、いつの間にか中身が失われてしまうようなものだと思うのです。ほったらかしにしていなくても、時代の変化と共に、少しずつ中身が薄められています。

戦後77年、日本は他の国に戦争を仕掛けることなく過ごしてきました。つまり他の国に対して武力を用いて侵略するということはしませんでした。しかし、自ら積極的に攻撃しなかったけれども、他の国の起こした戦争に加担しなかったとは言えないと思います。

朝鮮戦争の時は朝鮮特需と言われる好景気に浮かれ、ベトナム戦争の時は沖縄にある米軍基地が最前線として用いられていました。その後も湾岸戦争、イラク戦争、アフガニスタン紛争などで直接的な武器を用いてはいないかもしれませんが、協力してきました。

また、武力で侵略はしませんでしたが、経済面では侵略したと言われても反論できないような時期もあったのではないでしょうか。

【平和ボケ】

表面的には戦争のない状況を守り、平和を維持しているということは、当たり前のことではなく、とても大切なことだと思います。しかし、そのような社会に対して「平和ボケ」するなという指摘をする方がいます。

昔から、いろいろな事件や事故が起きると「危機管理」という言葉が新聞などのニュースを賑わせてきました。危機管理することはとても大切なことですが、危機管理できていないことに対して「平和ボケしている」と指摘することには疑問を感じてしまいます。

「平和ボケ」という言葉は、そんなに悪い意味を持っているのでしょうか。私の持っている辞書には出ていませんでしたが、ネットで調べると「戦争や平和に無関心で、現実逃避して甘い幻想に入り浸っていること」とありました。この意味をそのまま受け入れるならば、悪い言葉だと思います。

しかし、ネットの世界は少し偏ったものがあるので、鵜呑みにはできませんので、平和ボケに対する「対義語」というのも調べてみました。そこには「戦々恐々」とか「疑心暗鬼」「戦争中毒」などという言葉が並んでいました。

ここで「平和ボケ」の意味を特定するつもりはないので、これ以上深入りしません。ただ、私は平和ボケ、大いに結構と思っているのです。なぜなら、私がこの言葉から連想するのはイザヤ書2章4節の言葉なのです。

そこには

「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。                        彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。                     国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」

と書かれています。

 もはや戦うことを学ばないで、平和に生きることができるなら、これ以上に幸いな生き方はないのではないでしょうか。しかし、それでもイエスの語る平和からはほど遠いのです。

【イエスの平和】

イエスの語る平和とは、戦争もない、差別や貧困もない、そして、何よりも人々の心の中に不安がない状態を指しているのです。

今、私たちの周りには不安がたくさん有り過ぎるのではないでしょうか。個人的な不安を持ち出すことはできませんが、最大公約数的な不安として新型コロナウイルスの感染に対する不安があります。また、ウクライナでの戦争に対する不安もあるでしょう。国際情勢を見るなら、ミャンマー、パレスチナ、香港、まだまだあると思います。

また、国内に目を向けてみても、先日の参議院選挙では、不安の表れから保守的な政党が過半数以上の議席を獲得するようになりました。それに乗じて安倍元総理大臣の国葬が行われようとしています。亡くなった人を悼み、喪に服すことに何の疑問も感じませんが、死者の政治利用には異を唱えなければならないと思います。

イエスが「わたしの平和を与える」と語る時、その平和とは「世が与えるように与えるのではない」と続けています。さらに「心を騒がせるな。おびえるな」と続けています。

イエスの平和が与えられる時、私たちの心は騒ぎ、おびえるようなことが起こるのかもしれません。

1989年1月7日に大きな事件が起こりました。昭和天皇が亡くなった日です。次の8日は日曜日でした。昭和天皇の死によって、その前後からしばらくは「歌舞音曲」が禁止されました。もちろん法的に強制力のあるものではありませんでしたが、すべてのテレビ局、ラジオ局、その他すべてが空気を読んで喪に服し、歌舞音曲を中止しました。

しかし、そのような時に、一つだけ音楽の流れていた場所がありました。8日の日曜日を主の日と位置付けているキリスト教会でした。教会では、その日も賛美歌が歌われていました。当時、私が牧師をしていた教会は礼拝堂がなく、公共の施設を借りて礼拝していたので、とても不安でした。

空気を読んで、休むこともできたでしょうし、賛美しない礼拝も選択肢にはありました。しかし、空気を読むのではなく、神の導き、神の計画に従うことを教会は選び取ったのです。

平和を実現するためには、大きな決断が必要になってくるでしょう。それは、この世が与えるものではなく、神が主体となり、神が主導する平和なのです。

讃 美   新生330 み使いの歌はひびけり
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷  
後 奏