前 奏
招 詞   箴言20章22節
讃 美   新生  1 聖なる 聖なる 聖なるかな
開会の祈り
讃 美   新生151 わが心はあまつ神を
主の祈り
讃 美   新生256 高く戸をあげよ
聖 書   ローマの信徒への手紙12章9~21節
  (新共同訳聖書 新約P292)
宣 教   「平和に過ごすために」             宣教者:富田愛世牧師

【見せかけの愛】
 新共同訳聖書では9節~21節までの小見出しとして「キリスト教的生活の規範」と書かれていますが、規範と言われると「何かをすべきだ」とか「してはいけない」といったようなルールや基準のようなものをイメージすることが多いのではないかと思います。
 しかし1節~2節のところでお話したように、神は私たちに対して「世間の鋳型に窮屈にはめ込まれないで、自由に御心を行って良い」と語ってくれていることを前提にするなら、この小見出しは少しズレているように思えます。
 さて9節には「愛には偽りがあってはなりません」と書かれています。つまり、見せかけの愛ではいけないというのです。しかし、この言葉は読者に向けて語られているのでしょうか。
 ここに書かれている「愛」という言葉はギリシア語では「アガペー」という単語が使われています。それは無償の愛ですから、私たちにそのような愛を持ちなさいと求めても答えることのできないものなのです。
 これは大前提となる、神の愛とはこういうものです。見せかけではなく、本物の愛なのですという事を語っているのです。
 そして、次の言葉からが読者に向けた勧めとなっているのです。そこで語られる「愛」は「兄弟愛」なのです。この兄弟愛ということを定義することは、非常に難しいと思います。なぜなら、私たちの持っている家族観というものが一つではないからです。
 さらに、聖書の語る家族観を私たちは、あまりにも美化し、理想の形として思い描くことが多すぎるからです。聖書の語る家族は、アダムとエバから始まりますが、エデンの園から追い出される時、アダムは自分の罪をエバのせいにしました。エバを裏切ったのです。そして、カインとアベルという二人の子どもが与えられましたが、この二人も神への捧げ物の事で喧嘩して兄が弟を殺しているのです。
 これが聖書の語る最初の家族の姿です。このような罪深さを持ちながらも家族として共同生活を営もうとすることが大切で、その中で兄弟愛を理解しなければならないのです。
【主に仕え】
 11節には「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい」と書かれています。その前に書かれていることを読んでみると「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」と書かれているのです。聖書に登場する、最初の家族は、残念ながら「尊敬をもって互いに相手を優れた者」と思えなかったようです。
 そんな私たちに向けて、それでも敢えて、パウロは語っているのです。それが神の家族としての教会のあるべき姿なのかもしれません。これは、そのようにできるとか、できないとかいう事ではありません。そのために「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい」と語っているのです。
 12節には「希望をもって喜び、苦難に耐え忍び、たゆまず祈りなさい」と書かれています。「希望のある喜び」とは、ただ、楽しく、おかしくしていることではありません。もしかすると苦悩の中にあって、喜べない状況かも知れない。しかし、希望を持つ時、そこに喜びが与えられるのです。
 だから、苦難を耐え忍ぶことができるように、運ばれていくのです。そして、その苦難の中で生み出されるものの一つが「祈り」なのです。
 私たちは「苦しい時の神頼み」は良くないと、都合が良すぎて、そんな祈りを神は聞いてくれないと思うかもしれません。しかし、本当にそうなのでしょうか。苦しい時に、自分をそこから救い出してくれる方がいるのだと、神の存在を思い出すことができるなら、その人を神は見捨てるのでしょうか。「いつもは思い出さないのに、苦しい時だけ思い出しやがって。お前なんか知らないよ」と神が言うとするならば、それは神ではないでしょう。
 そんな神なら、私は信じません。私の信じる神は、そんな時に思い出してくれてありがとう。そんなに苦しいのなら、私が一緒にいてあげると言って、側にいてくれる神なのです。苦しい時の神頼み、大いに結構と言って、受け止めてくださる神、イエス・キリストなのです。
 13節には「聖なる者」と言って、福音を語る者たちを助けるように勧め、旅人をもてなすことが勧められています。旅人をもてなすことは中央アジアからパレスチナ地方一帯に、昔から伝わっている習慣でもありました。また、私たち自身が、地上では旅人だと聖書は語っているのです。14節ではイエスが語られた「愛敵の教え」が語られています。
【共に喜び、共に泣く】
 15節には有名な「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉が書かれています。喜びや悲しみは、私たちの日常の中にあふれています。
 しかし、ギリシアのストア哲学の影響で、感情を否定的に捉える人たちがいます。文化的な現代人は、もっと理性的に考え、振舞わなければならないと言われることがあります。
 キリスト教の中にも感情を表に出して礼拝するグループがありますし、私たちの教会のように感情的にはならず、理性的に振舞う教会もあります。もちろん、どちらが良いとか、悪いという事ではありません。それぞれにバランスが大切だと思います。
 しかし、ここでパウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と語り、喜怒哀楽といった感情を否定してはいないのです。それらは人間として、当然持っているものなのです。神が与えてくれたものなのです。
 嬉しい時に喜び、悲しい時に泣く。そのような当たり前の感情をパウロは大切にしているのです。
私たちの周りには、そして、私たち自身も同じですが、時には自分の感情を抑えられないくらい嬉しい時があるでしょうし、反対に悲しい時もあるのです。
 自分の感情を抑えられないくらい喜んでいる人と一緒にいる時、冷めて、第三者的にその人を見ることができるでしょうか。そういう人もいるかもしれませんが、ここでは一緒に喜べばよいと語るのです。
 反対に感情を抑えられないくらい悲しんでいる人が一緒にいたとするなら、放っておくのではなく、その悲しみを、もちろん理解することはできないかもしれませんが、それでも一緒に涙するならば、もしかすると悲しんでいる人の悲しみが少しは癒されるのかもしれません。
 そして、これらは「私がやる」のではなく、私たちも、他の人から、そのようにされているのだという事に気付くことが大切なのではないでしょうか。
【できれば】
 16節と17節は、今まで語ってきたことを、もう一度、繰り返しています。それくらい大切なことだという事でしょう。他の人に対して、思い上がることなく、謙虚でいることは大切なことなのです。
 そして、復讐したいと思う思い、仕返ししてやろうと思う思い、それらがないとは言えません。他人からひどい仕打ちを受けたなら、復讐してやろう、仕返ししなければ気が済まないという思いを無くせと言われても、難しいかもしれません。しかし、それらは愚かな事だと語られているのです。
 そして、18節では「できれば、せめてあなたがたは」と語ります。「こうしなさい」「ああしなさい」ではないのです。
 出来れば、平和に過ごしなさい。と語られるのです。なぜ、このような言い方がなされているのでしょうか。
 それは、私たちの努力や精進によって出来ることではないからかも知れません。平和に過ごすことは難しいことなのです。
 9節から語られてきたことを、まとめるならば19節以下にあるように「神の怒りに任せなさい」という言葉になるのではないでしょうか。ただ、神が怒られるかどうかは分かりません。
 ただ、私たちの姿勢として、神に委ねる生き方、というものが背景として語られているのではないでしょうか。
 神に委ねたからと言って、すべてが順風満帆に行くわけではありません。それでも、悩んだり、喜んだり、苦しんだり、涙したり、いろいろあるでしょう。
 ただ、忘れてはいけないことは、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くのは、私たちではなく、神が、イエスが、私たちが喜ぶ時、共に喜び、私たちが泣く時、共に泣いていてくださるという事なのです。

祈 り
讃 美   新生614 主よ終わりまで
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏