前 奏
招 詞   詩編117編1節
讃 美   新生  5 神の子たちよ 主に帰せよ
開会の祈り
讃 美   新生455 われに来よと主はいま
主の祈り
讃 美   新生 41 いとも慕わしきイエスの思い
聖 書   ローマの信徒への手紙15章7~13節
                  (新共同訳聖書 新約P295)
宣 教   「希望に満ち」      宣教者:富田愛世牧師
【受け入れる】
 今日の箇所は特別な個所です。というのも9章に入る時、ローマの信徒への手紙全体は、テーマによって3つか4つに区切ることが出来るとお話しました。どちらにしても、その3番目か4番目が12章から15章13節までということで、共通していました。大雑把に言うと、ここまでが信仰的な内容で15章14節以下は最後の挨拶となっているわけです。
 今日の箇所は信仰的な内容の最後の部分として区切られています。そういう意味で、具体的なクリスチャン生活に対する最後の言葉となるのです。
 14章に入ってから、ローマ教会内のユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間に起こった問題に対する発言が続いています。そして、この15章7節以下では、ユダヤ人クリスチャンを受け入れることは、神の御心に適っていると語っているのです。
 7節をもう一度読んでみます。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」と書かれています。「だから」と言って、この後、具体的な例を示しながら語っているのです。
 この手紙は、繰り返しになりますが、ローマの教会に宛てて書かれています。そこにいたのは多くの異邦人クリスチャンでした。異邦人クリスチャンに向けて「キリストは神の栄光のためにあなたがたを受け入れたのです」と語ります。異邦人クリスチャンを受け入れたのは神の栄光のためだというのです。
 どういうことでしょうか。それは、異邦人。すなわちすべての人々を受け入れるという事が、神の栄光を現すという事なのです。イエスはその生涯を通して、あらゆる人々を受け入れ、共に歩まれました。
 ユダヤ人は当然の事として、異邦人に対しても、病気などで汚れているとされる人に対しても、罪人とレッテルを張られている人々に対しても、同じように接し、受け入れました。その生き方が、神の栄光を現す生き方だったのです。
【キリストのように】
 ローマの教会にいる異邦人クリスチャンたちが、ユダヤ人を受け入れなければならない第一の理由は「キリストがあなたがたを受け入れてくださったから」なのです。
 9章から11章にかけて、ユダヤ人の救いについて書かれていましたが、ヘブル語聖書に書かれている、神の救いの計画の中で、その基本となるのは、やはりユダヤ人の救いという事でした。
 また、マタイによる福音書15章21節以下に、カナンの女の信仰について語られています。一人のカナン人の女がイエスの元に来て「娘から悪霊を追い出して欲しい」と頼みました。カナン人というのは、アブラハムたちが移住してくる前から、カナン地方、つまり、ユダヤに住んでいた民族で、ユダヤ人から見れば異邦人です。この女の願いに対して、イエスは「わたしはイスラエルのために遣わされている。子どものパンを小犬にやってはいけない」と答えています。しかし、女は「食卓から落ちたパンなら、小犬が食べても構わないでしょう」と答え、その答えにイエスは感心して、その娘を癒されました。
 この箇所の解釈は少し難しいところですが、初めの対応として、イエスもイスラエルの救いを第一にすべきだと考えていたと受け止めることが出来ます。8節を見ると「キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです」とあります。それくらい、ユダヤ人の救いという事は、聖書の中で、またユダヤ人社会の中で特別であり、大切なこと、神の約束だったのです。
 ただ、それは神の計画ではありましたが、ユダヤ人のかたくなさ、その罪のゆえに、ユダヤ人から奪われてしまったというのです。そして、その救いの業は、異邦人に与えられるようになったのだというのです。
【互いに受け入れる】
 次にローマの教会にいる異邦人クリスチャンたちが、ユダヤ人を受け入れなければならない第二の理由は、一方的に異邦人クリスチャンが忍耐してユダヤ人クリスチャンを受け入れるのではなく「あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」という言葉があるように「互いに」という事だと思います。
 「互いに」とは、どういうことなのでしょうか。ユダヤ人に対する神の救いの計画は8節の後半にあるように「先祖たちに対する約束と確証されるため」でした。
 神の約束は反故にされることのないものです。人間同士の約束は往々にして反故にされることがあります。しかし、神は真実なお方ですから、その約束は実行されなければならないのです。
 ですから、ユダヤ人が救われるという事は否定できないことなのです。ただ、保守的なユダヤ人は、ユダヤ人が救われると考えるのではなく、ユダヤ人だけが救われると考えていたようです。ですから、異邦人が救われるためには、ユダヤ人のようにならなければなりませんでした。割礼を受け、ユダヤ人が守ることのできない律法を守ることが求められたのです。
 しかし、パウロは、異邦人は異邦人のままで救われると考えていました。9節を見ると「異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです」と書かれています。異邦人の救いは神の憐れみによるのだというのです。
 異邦人が救われるためには、異邦人のままでは救われない、ユダヤ人のようにならなければならないと考えていたユダヤ人に対して、異邦人の救いは神の憐れみからなのだという事を受け入れなさいと語っているのです。
 だから「互いに」受け入れる必要があるのです。異邦人クリスチャンは、ユダヤ人クリスチャンを受け入れ、ユダヤ人クリスチャンは異邦人クリスチャンを「互いに」受け入れなければならないのです。
【神をたたえる】
 そして、9節の後半からはヘブル語聖書の言葉が4ヶ所、引用されています。それぞれ七十人訳聖書というヘブル語をギリシア語に訳した聖書からの引用なので、今、私たちが用いている聖書の訳とは少し違っていますが、参考のためにお伝えすると9節後半は詩編18編50節、10節は申命記32章43節の前半、11節は詩編117編1節、12節はイザヤ書11章10節となっています。
 これらの引用には、ヘブル語聖書の時代、つまり、ユダヤ教においても異邦人が排除されているのではなく、まず、ユダヤ人に対する、神の救いの業が表される。そして、その次に異邦人に対する救いの業が表されると語っているのです。ただ、これは順番ではありません。ユダヤ人と神との関係の中で語られるので、まずユダヤ人となるのであって、順番ではありません。
 順番ではないと言いながらも、順番だと受け止める人もいたようです。それは保守的なユダヤ人たちでした。彼らの考えは、ユダヤ人の救いが完成しなければ異邦人は救われないと考えていたようです。しかし、この考え方は、神を小さくしているように感じます。神には二つのことを同時にするくらい、簡単な事だったはずです。人間ならば、これが出来てから次の事というように、優先順位を付けなければなりませんが、神には不可能はないのです。
 神の計画、約束はユダヤ人に向けられたものでした。ですから、その約束の故にユダヤ人に救いが与えられるのです。そして、異邦人に対する救いの業は、神の憐れみの故なのです。だから、あなたたちは、その憐れみの故に神をたたえなさいと勧めているのです。
 13節を読んでみましょう。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」とあります。
 ユダヤ人と異邦人が共に神をたたえる姿の中に喜びと平和が与えられるのです。そして、このように希望に満ちた教会の姿をパウロもまた思い描いているのです。

祈 り
讃 美   新生544 ああ嬉しわが身も
献 金   
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏