前 奏
招 詞   箴言21章21節
讃 美   新生  5 神の子たちよ 主に帰せよ
開会の祈り
讃 美   新生 24 歌え 歌え キリストの愛を
主の祈り
讃 美   新生397 み神を愛する主のしもべは
聖 書   ローマの信徒への手紙15章22~29節
                        (新共同訳聖書 新約P296)
宣 教   「恵みを携えて」   宣教者:富田愛世牧師
【パウロの願い】
 ローマの信徒への手紙15章14節からの締めくくりの挨拶に入って、今日は2回目になります。この箇所では、まだ、具体的な挨拶はされていませんが、その前にローマ教会にいるクリスチャンたちにパウロ自身の思いを伝えようとしています。
 22節を見ると「こういうわけで」という言葉で始まっています。「こういうわけ」とはパウロが異邦人クリスチャンの使徒として働いてきたという事を意味しています。ですから、異邦人クリスチャンの割合が多いローマ教会に対しても、使命を持っているというのです。
 それは、小アジアを中心とした伝道旅行を続けてきましたが、23節にあるように「もうこの地方に働く場所がなく」というように、別の場所へと促されているという事なのです。
 当時の世界観としてはローマを中心として、地中海沿岸の地域が世界だと考えられていました。ですから、ユダヤから小アジアへと進めば、次にくるのが対岸にあるイタリア半島、ローマになるわけです。
 普通ならば、ローマに宣教のために行きたいとなるのでしょうが、前回お読みした、15章20節に「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に立てたりしないためです」とあるように、すでに教会が立てあげられているローマという町のために宣教しに行くという事は考えていなかったようなのです。
 パウロの計画、使命は、まだキリストの福音が伝えられていない地方、つまり、ローマ帝国の西側にあるイスパニアに行くことだったのです。そして、その途中、ローマに寄りたい、そして、ただ寄るだけではなく、ローマ教会の協力が欲しいと願っているのです。
【送り出してもらいたい】
 それではイスパニアに行く途中、ローマ教会に寄り、何をしようとしているのでしょうか。具体的にどのような協力を求めているのでしょうか。
 24節を見ると「しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです」とあるように、ローマ教会のクリスチャンたちとの交流を楽しみにしているのです。
 パウロという人物像には伝道熱心で、自分の生活に関してもかなり厳しい、ストイックなイメージがあるのではないかと思います。少なくとも私の中には、そのようなイメージがあります。
 しかし、ここではローマ教会のクリスチャンとの交流を楽しみにしているというのですから、厳格でストイックなイメージではない、少し人情味のあるパウロの一面が見えてくるような気がします。
 この当時、ユダヤから小アジアまでの主要都市には、まだ、会堂も持たず、今のような組織にはなっていなかったと思いますが、教会がありました。その中心的な存在はエルサレム教会だったはずです。
 一般的なクリスチャンならば、中心的な存在であるエルサレム教会に行くことを楽しみにしていたのではないかと想像しますが、パウロにとっては、保守的でユダヤ人中心のエルサレム教会に行くことよりも、革新的で異邦人の多いローマ教会の方が魅力的だったのではないかと思うのです。
 そして、ローマ教会の成熟したクリスチャンならば、自分をイスパニアへと送り出してくれると確信していたのではないでしょうか。送り出すという事についても、ただ「行ってらっしゃい」と言って見送るのではなく、旅の必要をすべて満たしてくれると確信していたのだと思います。
【その前に】
 このような計画、使命を持っていましたが、その前に25節にあるように「今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます」というのです。
 それは26節にあるようにマケドニア州とアカイア州のクリスチャンたちからエルサレム教会の貧しいクリスチャンたちへの援助の品を持っていかなければならなかったからなのです。
 貧しい人たちを援助するという事は、大切な事であり、キリストの福音に生きる者にとっては、その信仰のゆえに突き動かされる出来事なのです。
 しかし、それだけではなく、27節にあるように、それは義務でもあるというのです。使徒言行録15章を見ると、エルサレムで行われた使徒会議の様子が記録されています。
 その会議では、異邦人はユダヤ人のように割礼を受け、律法を守らなければ救われないという考え方から解放され、異邦人は異邦人のままで救われる、クリスチャンになれるという決議がなされました。神の救いを決議するというのも変な話ですが、当時のクリスチャンたちの中には、ユダヤ人の習慣と、そのような習慣を持たない異邦人クリスチャンたちの間に違和感があったので、このような決議が必要だったわけです。
 この時に付帯事項として、異邦人クリスチャンはエルサレム教会の貧しい人々のために援助をしなければならないという事が決められたのです。
 マケドニア州とアカイア州の教会は、その会議の中での当事者ではなかったようですが、パウロからその話を聞いた時、自分たちもその決議に従うという、自発的な決断をしたようです。
【恵みを携えて】
 エルサレム教会の貧しい人々に対する援助は、約束でもあるし、自発的な連帯の印でもありました。私たちのバプテスト教会では、各個教会主義と言って、それぞれの教会が主体性を持って、自主、独立しているという事を大切にしています。しかし、自主、独立しているからと言って、それぞれの教会が勝手、気ままな活動をしているわけではありません。
 同じ信仰を持った、他の教会と協働して働くことも大切にしています。共通の使命に対しては、連帯して協力していくという事は、とても大切な事であり、このような行為そのものが恵みの業なのです。
 そして、そのような意識は教会の事柄だけでなく、一人ひとりの信仰についても問われてくるものなのです。各個教会主義は、個人主義につながるようなイメージがあるかも知れませんが、キリストの福音に生きる者は「自分さえよければ」という狭い意味での個人主義から解放され、隣り人に目を向けるという豊かさに気付かされるのです。
 自分の事だけに注目するのではなく、隣り人にも目を向けていくならば、自分との違いに気付かされるだけでなく、共通点にも気付かされるはずなのです。そうやって視点が広げられ、豊かになるのです。この豊かさに生きることによって、キリストの祝福を味わうことが出来るのです。
 キリストの祝福というのは、自分だけが良ければではなく、隣り人と共に豊かになるという事から始まるのです。
 29節を見ると「そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています」と語っています。エルサレム教会を援助することは、一見、与えるだけに見えるかもしれませんが、与えることによって、それ以上の何かを得ることが出来るのです。だから、キリストの祝福をあふれるほど持って、ローマ教会を訪ねることが出来るようになると確信しているのです。
 今、私たちも与えられている祝福と恵みに感謝すると共に、与えることの幸いをもう一度、確認することが出来るなら幸いなことではないでしょうか。

祈 り
讃 美   新生300 罪ゆるされし この身をば
献 金   
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏