前 奏
招 詞   マタイによる福音書5章9節
讃 美   新生 20 天地おさめる主をほめよ
開会の祈り
讃 美   新生 61 さわやかな朝となり
主の祈り
讃 美   新生515 清けき河の岸辺を
聖 書   創世記26章12~25節
                      (新共同訳聖書 旧約P40)
聖歌隊賛美 キリストの平和
宣 教   「平和の井戸」    宣教者:富田愛世牧師
【イサクの物語】
 今から78年前の8月15日に太平洋戦争が、日本の敗戦という結果で終わりました。明後日はそのことを忘れないために、様々な式典が行われます。キリスト教会では7時から千鳥ヶ淵の戦没者墓苑での平和祈祷会を皮切りに、日本中で平和のための集会が開かれます。
 市川大野教会では、今日の礼拝を平和主日の礼拝として守ることとなっていますが、平和という事については、特別な日に思い出すことではなく、普段から考え続けていかなければならないと思っています。
 聖書を読んでいても、いたるところに「平和」という言葉が出てきます。ただ、ヘブライ語では挨拶に使う「シャローム」という言葉が平和とか平安と訳せる言葉なので、当然の事なのかもしれません。そのように考えるなら、ヘブライ語の「シャローム」とか、アラビア語の「サラーム」という挨拶の言葉はとても素敵な挨拶だと思います。
 そのような素敵な挨拶の言葉を持っていた民族のルーツについて、今日は創世記から見ていきたいと思っています。
 イスラエルの民はアブラハム、イサク、ヤコブの3人を民族的な祖先として、また、信仰の父祖として代々尊敬してきました。この3人は親、子、孫としての関係にありますが、その性格は三者三様でまったく違ったものでした。
 アブラハムはイスラエルだけでなく、アラブ系の民族やイスラム教徒にとっても偉大な祖先であり、信仰の父としても尊敬されています。アブラハムについては創世記12章にあるように、神からの呼びかけに答え、大胆な決断をしています。
 神からの「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて 私が示す地に行きなさい」という言葉に従い、先の見えない旅に出ているのです。この大胆な決断の故に、アブラハムは神から義と認められるわけです。
 そして、その子であるイサクが今日のテーマとなるわけですが、その前にアブラハムの孫であり、イサクの子であるヤコブについて簡単に紹介するならば、創世記25章を見るとエサウとヤコブという双子が生まれます。本来なら長子であるエサウが家督を継ぎ、祝福を受けるはずでした。しかし、ヤコブは祝福を奪い取る者として描かれ、その生涯について丁寧に語られています。
【臆病者】
 そのようなアブラハムやヤコブに比べるなら、イサクについては臆病な小心者として描かれています。もちろんイサクが臆病だとか、小心者だという言葉が聖書に書かれているわけではありません。ただ、アブラハムの大胆さやヤコブの執念深さに比べるならば、臆病で小心者に思えるという事です。
 アブラハムにはサラという妻がいましたが、なかなか子どもが与えられませんでした。ある日、サラはアブラハムに対して、自分の女奴隷であるハガルによって子孫を残すように提案するのです。その提案を受け入れ、アブラハムにはハガルによってイシュマエルという息子が与えられました。
 ところが18章を見ると、アブラハムの所に主の使いが訪ねて来て、サラによって子どもが与えられるという予告をするのです。そして、21章で神の使いの予告通り子どもが生まれイサクと命名するのです。
 ハガルはサラの女奴隷でしたが、アブラハムの子を産んだという事で主人であるサラのことを軽んじるようになったようです。その影響もあるのだろうと思いますが、イサクは兄であるイシュマエルからいじめられるようになったようです。
 そんなイサクがある日、父アブラハムにモリヤの山まで連れて行かれました。アブラハムはいけにえを捧げ、礼拝するために行くというのですが、いけにえの動物は持っていませんでした。そして、イサクをいけにえとして捧げようとするのですが、イサクに手をかける寸前で神によって止められました。
 この話はイサクがいけにえとして捧げられる話として有名ですが、実際にはアブラハムの信仰が試されるという事がテーマになっていて、イサクは連れて行かれただけでした。
 次にイサクが登場するのは24章からでイサクが結婚することになるわけですが、自分で妻になるべく女性を探しに行くのではなく、アブラハムの命令で僕がアブラハムの故郷まで出向き、そこで嫁探しをするわけです。結果的にはリベカという女性が選ばれ、イサクのもとへと連れ帰られ、結婚するのですが、イサクの自主性のようなものは、ほとんど見られず、何かが起こることに対する臆病さを感じます。
 この臆病さは、幼い頃に父アブラハムによって、いけにえとして殺されかけた事がトラウマとなっているように思われます。しかし、この臆病さは否定的な性格として捉える必要はありません。かえって、弱さを持つ事によって、弱さを持つ者を理解するという、積極的な面を持つようになるのです。
【生活の基盤】
 この後、25章でアブラハムは息を引き取り、イサクには双子の子どもが与えられました。そして、今日の聖書箇所である26章へと進んでいくのです。
 アブラハムは生まれ故郷を出て、神が示す地へと旅をしますが、その間、様々な戦いがありました。そして、それらの戦いに勝利することによって財産を増やし、大きな民へと成長していきました。
 しかし、イサクはどうかと言うと、26章を読むと分かるように戦いによって財産を奪うような方法はとっていないようなのです。なぜなのかは分かりませんが12節を見ると「イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年の内に百倍もの収穫があった」とあるのです。
 イサクは力強さによってではなく、神の祝福によって財産を増やしていきますが、これによって誤解され、ねたまれてペリシテ人から嫌がらせを受けるようになっていきます。そして、井戸をめぐる争いに巻き込まれてしまうのです。
 私たちは水の豊かな日本に住んでいるので、本当の意味での水の大切さに気付いていないのではないかと思います。何かを浪費する時に使われる言葉として「湯水のように」という言葉があります。
 水はどれだけたくさん使ってもなくならない。もっと言うなら、永遠に尽きることがないと思っているのです。しかし、多くの国や地域では、水はふんだんにあるというものではなく、限りあるものだし、そこにあるものではありません。ある地域では、何キロも歩いて水を汲みにいかなくてはならないし、そうやって苦労して手に入れた水が飲めるようなものではないという事も当たり前のようにあるようです。
 パレスチナにおいても同じように水は貴重品でした。皆さんもよくご存じの中村哲さんは、医者としてパキスタン、アフガニスタンで活動されていましたが、現地の水事情が良くならなければ、いくら医療行為を行ったとしても改善されないという事で井戸掘り事業を始められました。
 パレスチナにおいて井戸とは生活の基盤でした。水を得る事が生きることに直結していたのです。そして、この水に関連する戦いが後を絶たなかったのです。
【平和の井戸】
 イサクは生きるために戦うという事を選ばず、戦いを避ける道を選び、祝福を手に入れるのです。この発想は、日本の憲法9条にも通じるのではないでしょうか。先ほど例に出した中村哲さんの言葉として、有名なものの一つにこんな言葉があります。
 「向こうに行って、9条がバックボーンとして僕らの活動を支えていてくれる、これが我々を守ってきてくれたんだな、という実感がありますよ。体で感じた想いですよ。武器など絶対に使用しないで、平和を具現化する。それが具体的な形として存在しているのが日本という国の平和憲法、9条ですよ。それを、現地の人たちも分かってくれているんです。だから、政府側も反政府側も、タリバンだって我々には手を出さない。むしろ、守ってくれているんです。9条があるから、海外ではこれまで絶対に銃を撃たなかった日本。それが、ほんとうの日本の強味なんですよ。」
 イサクが井戸を掘り続けているとゲラルの羊飼いたちが「この水は我々のものだ」と言って争いが起こりました。ここで語られる争いとは、どのような争いだったのでしょうか。
 一般的に争いという言葉から連想するなら、どちらかにケガ人や死んでしまう人が出てくると思いますが、そのような記録はありません。また、先ほどアブラハムについて説明した時、様々な戦いに勝利することによって財産を増やしたと言いました。アブラハムの戦いにはミルハマーというヘブライ語が用いられていますが、ここではエセクという言葉が用いられています。
 この二つの違いについて正確な説明は出来ませんが、戦争と訳されるミルハマーと争いと訳されるエセクには規模やそこで使われるパワーの違いが感じられます。そして、この箇所が伝えようとしていることは、始めの井戸をエセク、争いと名づけ、次の井戸はシトナ、敵意(不和)と名づけ、最後の井戸はレホボト、広い場所(自由の地)と名づけることによって、争いが力のぶつかり合いではない方法で解決に向かったことを暗示しているのではないでしょうか。。
 争いを避けることは、今の常識から考えるならば負けなのかもしれません。しかし、聖書はそれを負けだとは語らないのです。そうやって、この世の常識とは違う考え方かも知れませんが、そこに平和を作るひとつの方法が隠されているのです。弱肉強食というこの世の原理に従うなら、敗北者と映るかもしれませんが、神ご自身の手に支えられているのです。

祈 り
讃 美   新生514 めぐみの主は
献 金
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏