前 奏
招 詞   イザヤ書26章3節
讃 美   新生 20 天地おさめる主をほめよ
開会の祈り
讃 美   新生329 全能の神はいかずちも
主の祈り
讃 美   新生384 語り伝えよ神のみ言葉
聖 書   フィリピの信徒への手紙4章4~7節
                      (新共同訳聖書 新約P366)
宣 教   「もう一度、喜びなさい」    宣教者:富田愛世牧師
【重ねて言います】
 最近改めて、人の言葉の難しさというものを感じさせられています。一つの流れ、文脈の中で語られた言葉が、それだけを抜き出してしまうと、違う意味にとられてしまうことがよくあります。言葉が独り歩きすると言いますが、独り歩きしてしまうと、とんでもない誤解を招いて問題を起こしてしまうことがあります。
 同じことが聖書にも当てはまります。何度も言うように、聖書の言葉は、一つひとつを抜き出してしまうと、神の意図していることとは違った意味になってしまうことが多いのです。聖書の言葉、御言葉はとても大切なものですが、同時に注意深く読まなければならないのです。
 このフィリピの信徒への手紙は「喜びの手紙」と呼ばれ、喜びということが全体を貫いているテーマです。否定的にとれる言葉が出てくる時もありますが、それも喜びというテーマの中で書かれた一言だというように解釈しなければならないのです。
 前々回まで、数回にわたって読んできた3章では少し耳の痛くなるような忠告が書かれていました。律法主義者に注意しなさいとか、自己中心にならないで、他者の立場に立つことの重要性が語られてきました。
 そして、この4章4節からは、もう一度喜ぶことにテーマが戻されています。4節をお読みします。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」
 言うまでもありませんが、パウロが語る喜びとは、ただ嬉しいということ、自分にとって都合の良い事が起こったということではありません。イエスに出会うことによって、今まで自分を縛り、不自由にしていた宗教的な律法主義から解放されたという根本的な喜び、主に在る喜びを指しています。
 この手紙を読む時に、私たちも自分に問い直す必要があるのです。本当に自分はキリストによって自由にされているのだろうか。律法主義から解放されているだろうか。もしかすると、昔の律法主義的な思いに逆戻りしていないだろうか。と問い直さなければならないのです。
 パウロは「重ねて言います」というように何度でも「喜びなさい」と語ります。それはパウロ自身も意識的にこだわっていなければ、簡単に律法主義に戻ってしまうという危険性を感じていたからではないでしょうか。
【感謝と寛容】
 続いて5節をお読みします。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」
 パウロはキリストの身体である教会に結び付く者は喜びなさいと命じています。もちろん喜びなさいということは、命じられて喜べることではありません。それぞれの感情によって喜べる時もあれば、喜べない時もあります。しかし、先ほども言ったように、ここで喜べと命じられる喜びは、嬉しいことや自分に都合の良い事が起こって喜ぶということではありません。主にある喜びなのです。
 そして、キリスト者が喜べるということの前提には、信仰によって広い心を持つことができるという、パウロの確信があるのです。広い心、つまり寛容の心をキリスト者は持たなければならないのです。
 ここで「持たなければならない」というと異論が出てくると思います。しかし、本当にイエスの語った福音を生きるならば寛容な心を持たざるを得なくなるということなのです。
 イエスはその生涯で何をしましたか。宗教的な律法、戒律を前面に出して、これをしなければならない、これを守らなければ神に愛されないぞ、なんて言いませんでした。守りたい、でも守れなかったという人の隣りに座り、守れなかったけど、精いっぱい努力したことを見ていたよ。だから次、頑張ろうと励まされたはずです。
 イエスの生き方において、この感謝と寛容の心を見ていくならば、それらは努力したり、何かしたりして手に入れているのではありません。自然にそうなっているのです。ただ、この自然という言葉には大きな意味があります。それはイエスは神だということです。それでは、神ではない私たちはどうしたらよいのでしょうか。自然に身に付く訳ではありません。それは聖霊の働きなのです。聖霊の働きによって与えられるのです。
 さらにパウロはここで、主が「すぐ近く」におられと語っています。言葉の意味として「主はすぐ近くにおられます」というのはキリストの再臨ということなのです。
 しかし、あえて別の解釈をしたいと思うのです。それはインマヌエルということです。つまり、神が私たちと共におられるということです。パウロの時代は、本当にすぐにでもキリストが来られると多くの人たちが信じていました。しかし、未だに実現はしていません。実現していないから嘘だということではありません。聖書の約束ですから必ずそうなります。ただし、今の状況に照らして読むならば、再臨の事として距離を置いて読むより、インマヌエルの信仰を持って読むほうが理解しやすいはずです。
【具体的なアクション】
 次に6節を読んでみましょう。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」
 喜びは神さまから与えられるのだから、何もしないで待っていていいのかというと、必ずしもそうとは言えません。誤解しないで聞いていただきたいのですが、何かをしなければならないというのではなく、できることをした方がより大きな祝福を受けるということです。
 パウロが勧めている、喜ぶための具体的なアクション、行動は、思い煩わない事と感謝をこめて願い求めることなのです。感謝を込めて祈りと願いをささげるというのは文字通りのことなので、説明する必要はないと思います。
 しかし、思い煩うということは、時々誤解してしまうので少し説明をしたいと思います。思い煩いというのは「思い」を煩う、つまり、何かを前にして悩むということではなく、何かが起こる前に、何か起こったらどうしようと悩むことです。つまり、答えを出そうとして悩むことではありません。
 答えを必要としないのですから心配しかありません。そんな思いに対してパウロは、思い煩うな、つまり、心配しないでいいと言いきっているのです。
 心配しないでいいと言われると、最終的に何もしなくていいと、開き直ることがあるかもしれません。しかし、パウロが語るのはそういうことではありません。心配する必要はないけれど、危機管理はしっかりとしなければなりません。
 ちょっとややこしくなりましたが、具体的な例を挙げていうならば、教会の中には信仰があるなら、何でもできるとか、主に委ねているから大丈夫という人がいます。とても信仰的な姿勢に見えるかもしれませんが、そう言うだけで何もしない人がいたとしたら、お門違いだと思うのです。
 信仰がある、主に委ねているという言葉に責任を負わなければなりません。それは、自分で出来る限りのことを、精いっぱいするということです。誰かのために祈っていると言っても、その人に声もかけず、関係を持とうとしないなら、本当かなと疑いたくなります。反対に真剣にその人を覚えて祈るなら、関係を持ちたいという思いが起こされ、自然と押し出されていくはずです。
 主が何とかしてくれるから何もしなくていいのではなく、出来ることをして委ねる環境を整えなければなりません。
【喜べること】
 7節に「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と書かれています。
 平和と聞くと戦争のない状態とか、みんなが仲良くいられる状態とかいろいろ想像すると思いますが、ここで語られる平和とは、人知を超えたものだというのです。つまり、私たちの想像する範囲を超え、神が主導権を握るということなのです。
 別の言い方をすれば、神の国ということです。平和というのは神の国の実現なのです。そして、神の国というのはキリストの福音が行われているところを意味しています。誰かがではなく、私が自分を愛するように隣人を愛することができたなら、そこが神の国なのです。そして、そこに平和があるのです。
 そして、私たちの心と考えがキリストによって守られるのですから、何も心配はいらないのです。私たちの心と考えは時に暴走してしまいます。自己中心になってしまい、壊れてしまうことがあるかもしれません。しかし、イエスが共にいてくださり、主導権を握ってくださるなら、それこそが平和であり、神の国の到来なのですから、何も心配はいらないのです。
 ここまで整えてもらえるなら、そこには喜びしかないのではないでしょうか。常に喜ぼうとする私たちに聖霊が働いてくださり、神との間に平和が築かれ、神との平和を感じる時、私たちの前から不安や心配は去っていくのです。そして、また喜べるというプラスのスパイラルに入れられるというのです。

祈 り
讃 美   新生538 神はわがやぐら
献 金
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏