前 奏
招 詞   ホセア書11章4節
讃 美   新生 14 心込めて主をたたえ
開会の祈り
讃 美   新生 56 朝風しずかに吹きて
主の祈り
讃 美   新生266 わが救い主 主よ
聖 書   コリントの信徒への手紙一12章31~13章3節
                    (新共同訳聖書 新約P316)
聖歌隊賛美 新生557 幻をわれに
宣 教   「愛こそすべて」    宣教者:富田愛世牧師
【今さら…】
 皆さんの中には、何かと連動した記憶というものがあると思います。夕陽を見ると何かを思い出すとか、良い香りをかぐと、その時の記憶がよみがえるとか、何かと記憶が連動するという事があると思うのですが、私はコリントの信徒への手紙を読むと思い出す出来事があります。
 それは20年近く前の出来事で、Y教会にいた頃、K連合の役員をしていました。定例の役員会が火曜日の5時半から始まるのでお弁当が出るのですが、ある時5、6人集まった時点で一人の方が突然「それでは食前のお祈りをします」と言って祈り始めました。もちろん悪い事でも何でもないのですが、懐かしさと同時に、少し違和感を覚えました。
 コリント教会のような状況、つまり礼拝としての食事や食事会として集まるならば、一緒にお祈りをして食べ始める事に何も抵抗は感じません。しかし、役員会がメインで食事のために集まるわけではなく、三々五々集まってくる時は、早く来た人や遅れてくる人への配慮で、それぞれが祈って食べ始めるというやり方でした。
 そのようなやり方に慣れていたので「それでは食前のお祈りをします」という掛け声に、少し違和感を感じると同時に、そういう配慮を考える前の状況も経験しているので、懐かしさを覚えたように思えるのです。
 もちろん、その人は悪い事をしているわけではありませんし、見習うべき事かも知れません。しかし、一緒に食前の祈りをするという事が習慣化して、何の疑問も持たなくていいのかなと思わされました。
 こんな事を言うと「また、面倒くさい富田の悪い癖が始まった」と思われるかもしれません。しかし、私たちのまわりには、ある事柄がもう自明の事になり、今さら考える必要はないと思われる事があまりにも多すぎるように思えるのです。
 「今さら、そんな事いわなくても分かってる」と言いながら、本当は、なぜそうしているのか分からない事が多いと思います。事柄の本質を先送りにしていることがあるのです。しかし、敢えて「今さら」と言われる事に焦点を当てて、真剣に問い直さなければならない時があるのです。
【コリント教会の愛】
 今日の聖書に目を向けるなら、コリントの信徒への手紙一13章は「愛の賛歌」と呼ばれ、聖書の中でも最も美しい表現に満ちた箇所です。25年位前、結婚式の働きに関わっていましたが、多くの場合クリスチャン以外の式だったので、語るメッセージはこの愛の賛歌から語る事がほとんどでした。
 私はこのようなキャラなので、式前のカウンセリングでも、かしこまった感じではなくフランクに話をし、式が終わった後もよく声をおかけしました。そのような感じで新郎新婦に接していたので、他の参列者からも声をかけられることがありました。
 参列者の方たちの反応として「キリスト教の愛についての考え方は素晴らしいですね」というものが多かったのです。それくらい、この箇所は聞く人々に感動を与えるものなのです。
 さて、具体的に今日の聖書箇所を見ていきたいと思いますが、そもそも、なぜパウロはコリント教会にこんな事を書き送ったのでしょう。コリント教会に愛がなかったからでしょうか。そうではありません。
 私たちが聖書を読む時、どうしても、そこから何かを学び取らなければならないと思ってしまう傾向があります。聖書は何かを私たちに、そして、何々の手紙と呼ばれるものは、その宛て先の教会や個人に何かを教えようとしていると思い込んでいます。
 しかし、何かを伝えようとしていますが、必ずしも何かを教えようとしていたわけではありません。ですから、愛について書いているからと言って、宛て先の教会に愛がなかったわけではありません。
 そもそも、愛のない教会は存在しません。優しさや配慮の少ない教会や厳しさ中心の教会はあります。しかし、愛がないわけではないと思います。不完全な教会だったとしても、神が愛しておられるから、その教会の存在が許されているのです。
 しかし、何を大切にするかという優先順位が狂ってしまったり、その事柄の本質を意識しないで、自明の事としてしまったり、習慣的に上辺だけを取り繕って「今さら」と言って意識しなくなったりする事によって、愛の欠けた状態になってしまったのです。
【効率主義】
 次に、これもまた、繰り返しになりますが、大切な事なので、耳にタコができるかもしれませんが、聞いてほしいと思っています。
 コリントという町をイメージする時、歴史上2つの時代に分けられるという事を捉えておかなければなりません。古代コリントは東西貿易の中継地点として繁栄していましたが、物質的な豊かさという誘惑に負けて、道徳的にも宗教的にも堕落した町となってしまいました。
 そして、BC146年にローマ帝国によって破壊され、約100年の間、放置され荒れ放題になっていたそうです。その後BC44年にローマ皇帝ユリウスによって再建されました。パウロがこの手紙を書いた時期はAD55、6年と言われていますから、当時のコリントは活気溢れる、勢いのある町だったと思われます。
 ちょうど、敗戦によって荒廃した町が復興して、高度経済成長期からバブルにかけての日本のように、右肩上がりの効率主義がもてはやされていた時期だと思うのです。この時期、効率主義的な考え方は時代の最先端であっただろうし、現代の私たちのように、そのメリットとデメリットを知っていたわけではありません。
 教会の中にも効率的な考え方に基づいた賜物の用い方がなされていたのかもしれません。即効性のある働きが重要視され、心の問題や弱者に向けられた視点は、即効性のないものとして、二の次にされていたように想像するのです。
 一つの働きを進めていくためには、賜物の用い方に優先順位をつけなければならないと思いますが、それはその時かぎりのもので、賜物自体に優劣があるわけではないのです。
 しかし、当時のコリント教会では、即効性のある賜物が、より優位なものとして認識され、賜物に優劣を付け、神のため、教会のために用いず自己顕示欲のための道具になってしまったのです。
【愛がなければ…】
 だからこそ、パウロは愛の重要性を語るのです。信仰的に熱心になる事は大切です。しかし、そこにはいつも落とし穴があるのです。自分がある事によって成長できたとすると、誰もがみんな自分と同じ経験をすれば成長すると思ってしまうのです。
 もちろん、その恵みを語る事、証しする事は大切で、したほうが良いのです。ただ、それを人に押し付ける時、別の力が働いてしまうのです。
 1~3節は信仰的に熱心な状態について書かれています。ここにはとても不思議な事が書かれています。信仰的に熱心であるという事と愛があるという事は別だという事です。
 ある町に200人近い人が集まる大きな教会がありました。本当に熱心に伝道し、たくさんの人がバプテスマを受けました。でも、そこを離れる人も多く、その人たちは「あの教会には愛がない」と言っていました。愛のない教会は無いと思いますが、その人たちの求めている愛の形と、その教会の愛の形が違っていたのだと思います。
 熱心に伝道し、熱心に奉仕する事が優先順位の上位を占める事によって、数的には成長していましたが、内容がついていかなかったのかも知れません。この手紙の中でパウロが語るように、神が求めておられるのはそんな「熱心さ」ではないのです。
 今日は読んでいませんが4節以降は「愛の賛歌」の中心として、耳にすることの多い部分だと思います。4~7節でパウロは愛について語ります。先ほども言ったように、私たちは聖書に書いてある事を命令として受け止める傾向が強いのですが、パウロはこのような愛を持ちなさいと勧めているのではありません。
 パウロ自身の独白なのです。イエスを迫害していた自分に対して、神は忍耐強く、情け深く、いらだたず、恨まず愛してくれたと告白しているのではないでしょうか。
 神が独り子イエスを送ってくださったのは「愛」を示すためでした。それは罪人である、私たちの「罪」を「赦す」という「愛」なのです。

祈 り
讃 美   新生536 燃え立つ言葉も
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
祝 祷  
後 奏