前 奏
招 詞 詩編16編10~11節
讃 美 新生 14 心込めて主をたたえ
開会の祈り
讃 美 新生 59 父の神よ 汝がまこと
主の祈り
讃 美 新生339 教会の基
聖 書 コリントの信徒への手紙一15章12~19節
(新共同訳聖書 新約P320)
宣 教 「あえて死を語る」 宣教者:富田愛世牧師
【祝いの日】
先週はペンテコステでした。使徒言行録によるならば、キリストは復活してから弟子たちの前に姿を現し、四十日にわたって神の国について話をされ、その締めくくりとして、聖霊が降るまでエルサレムに留まり、待っていなさいと命じられました。
そして、聖霊が降ると、あなたがたは力を受けて、ユダヤとサマリア、さらには地の果てにまで、キリストの証人として遣わされると語り、弟子たちが見ている目の前で、天に上げられたと記録されています。
その後、弟子たちがどうしていたのかは詳しい記録はありませんが、キリストの命じられた通り、エルサレムに留まっていたようです。そして、五旬祭の日に一同が集まっていると、そこに聖霊が降ったと記録されています。
この五旬祭とはギリシャ語の「ペンテコステ」という言葉の翻訳で、過ぎ越しの祭りから五十日目の祭りでした。もともとは初夏における小麦の収穫祭だったようです。使徒言行録2章には「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまった。」とあります。
この日を境に弟子たちは力強くキリストを証しする者へと変えられていったというのです。さらに、この日、三千人が仲間に加わったということで、この日が教会の誕生日とされたのです。
このペンテコステとクリスマス、イースターがキリスト教の三大祝日として祝われています。日本ではクリスマスが一番有名ですが、キリスト教会としては、イースターが一番重要な日として覚えられています。
なぜなら、キリストが十字架にかかり、私たちの罪の身代わりとなって死に、三日目に復活したことをお祝いする日ですから、キリスト信仰の根幹だと言えるのです。
祝いの日という事ですが、日本では、おめでたい日、祝いの席で口にしてはいけない、禁句というものがあります。その代表的なものが「死」です。昔は病院のエレベーターに死を連想するから四階がなかったり、アパートの部屋も3号室の次は4号室ではなく、5号室になっていたりしました。それくらい「死」を忌み嫌っていたという事なのでしょう。
しかし、教会ではキリストの復活という祝いの日に、正面から死に取り組むのです。あえて死を語ろうとしているのです。ただ、ここに一つ問題があります。それは死をどのように理解するかという事です。
死とは何でしょうか?命が尽きるとか、終わるとか、役に立たないとか、辞書を調べると様々な意味が載せられていますが、ここでは人の命という視点から見ていきたいと思います。法律的には「人の死とは脳の機能が完全に停止し、蘇生不能な状態に陥ったことをいう」とあります。
また、医学的には「呼吸と血液循環が完全に停止し、脳の全機能が完全に停止し、蘇生不能な状態に陥り、且つその状態が継続したとき、人は死亡したものとみなされる。」とありました。ただ、現代においては延命措置が進んでいるので「呼吸と血液循環が人工的に維持されている場合、脳検査の結果、脳の機能が完全に停止し、蘇生の見込みがなくなったことが完全に確認されたとき、人は死亡したものとみなされる。」という一文が加えられていました。
法律や医学では、死の認定基準というものが定められていますが、コリントの信徒への手紙が語る「死者」という時の「死」は、そのようなものとは違っています。パウロがこの手紙の中で語ろうとしている「死」とは信仰の問題なのです。ですから「死者の復活」や「キリストの復活」という言葉も信仰の言葉として語られているのです。
【死者の復活】
さて、12節を見ると「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているはどういうわけですか」とあります。
キリスト信仰の根幹は「キリストの復活」です。キリストが死に勝利し、復活されたと告白することが、私たちの信仰なのです。そのような信仰を持っているにもかかわらず「死者の復活などない」と言っている人がコリント教会にいるという事です。たぶんギリシャ哲学の影響を受けた人々がいたのでしょう。霊魂は不滅だが、肉体は滅びると主張していたのです。現代の日本の多くの宗教も霊魂不滅と輪廻転生を主張しています。同じような状況が、当時のコリントの状況だったようです。
ただ、ここで問題となっているのは「キリストの復活」を否定している人がいるという事ではなく「死者の復活」を否定している人がいるという事なのです。
続けて13節では「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と語っています。何となくややこしい表現ですが、ここで私たちは誤解していることが多いのではないかと思います。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」という言葉を理解する時、同じように「キリストの復活がなければ、死者も復活しなかったはずです」というように、死者とキリストを入れ替えても、この言葉が成立すると思い込んでいます。
パウロは、キリストが復活したという事を否定していないのに、死者の復活を否定することに問題を感じているようなのです。キリストの復活は、人間の復活のために起こりました。その人間の復活を否定するなら、キリストの復活も否定され、私たちの信仰は無意味なものになってしまうのです。
私たちは「復活」という奇跡的な事柄をどのように理解していいのか分かりません。神が特別な奇跡の業を、ある特定の時に、特定の人の上に行ったと見るのでしょうか。もし、そうだとするなら、パウロは「キリストの復活」ではなく「イエスの復活」と語ったのではないでしょうか。
イエスという一人の人間が復活したとするなら、それは特別な時に、特別な人としてイエスの上に起こった奇跡と捉えることができます。しかし、パウロは「キリスト」と語ります。キリストとは救い主メシアという称号です。
つまり、救い主の復活という事が語られているのです。そして、ここで語られる事柄は、法律や医学の領域で死と認められたものの復活ではないのです。信仰の問題としての死と復活なのです。
パウロにとって「死」とは肉体的に呼吸が止まり、心臓が止まり、内臓や脳が機能を停止して、蘇生できない状態にあるという事ではありません。もちろんそれも死の特徴でしょうが、パウロにとっての死とは神との関係において語られるものなのです。
ローマの信徒への手紙6章23節を見ると「罪が支払う報酬は死です」と書かれています。パウロにとっての死とは信仰の問題であり、罪の報酬なのです。罪を抱えていることによって、私たちは必然的に「死」と向き合わなければならないのです。肉体的な死はもちろんですが、それ以上に、魂においても、死と向き合わなければならないのです。
パウロは続けて「しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」と語ります。死の前に無力な私たちですが、神はそのような私たちのためにキリストの十字架の死と復活を用意してくださったのです。
【希望は天にある】
福音書を見るとそこにはキリストの復活の出来事が記録されています。ヨハネによる福音書20章には、イエスの復活を疑っていたトマスという弟子に向かって「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りました。さらに21章では7人の弟子に現れ、朝食を共にしたことが記録されています。
聖書は事実として、キリストが肉体を持って、神に復活させれたことを記録しています。そしてクリスチャンはそのことを信じているはずです。神は何か不思議なことをして、人を驚かすためにキリストを復活させられたのでしょうか。人の考えの及ばないことして信じさせようとしたのでしょうか。
そうではありません。死を前にして、ただ怯えている人、その先に何があるのか分からずに恐れを抱いている人、まさに滅びに向かって歩んでいる一人の人に向かって永遠の命という希望、復活の希望を与えてくださるのです。ですからクリスチャンにとって「死」は禁句ではなく、恐れでも、永遠の別れでもないのです。
確かに肉体の死は、必ず、誰にでも訪れます。創世記6章3節に「人の一生は百二十年となった」と書かれています。聖書によるならば、人の寿命は120年ですから、誰でも、必ず120年以内に死んでしまうのです。
しかし、聖書の約束は、肉体の死と同時に「永遠の命」が与えられるのです。この永遠の命とは霊魂に限られたことではありません。26節を見ると「最後の敵として、死が滅ぼされます」とあります。
「死」に勝利し、キリストと同じように復活し、キリストの支配の中を生きるという希望を持つことが出来るのです。
祈 り
讃 美 新生251 恐れを捨て去り
献 金
頌 栄 新生671 ものみなたたえよ
祝 祷
後 奏
2024年5月26日 主日礼拝
投稿日 : 2024年5月26日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー