前 奏
招 詞 創世記33章11節
賛美歌 新生 26 ほめたたえよ造り主を
開会の祈り
賛美歌 新生104 雨を降り注ぎ
主の祈り
賛美歌 新生460 戸口の外にイエスは立ちて
聖 書 コリントの信徒への手紙二9章1~8節
(新共同訳聖書 新約P335)
宣 教 「献げる喜び」 宣教者:富田愛世牧師
【エルサレム教会への援助】
今日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙二9章ですが、内容としては8章と同じようなことが書かれていて8章と9章は共に独立した二つの手紙がコリントの信徒への手紙二に組み込まれたと考えられています。そして、これらの内容はエルサレム教会への援助、具体的には募金活動によって、エルサレム教会の貧しい人たちを助けようという事なのです。
なぜエルサレム教会の貧しい人たちを援助するようになったかというと、パウロたちが第一回目の伝道旅行を終えた後、ユダヤからやってきた人々が、異邦人クリスチャンも割礼を受けなければ救われないと主張したのです。それに対してパウロたちは反論し、激しい論争が起こったようです。
その論争を納めるためにエルサレムで使徒会議と呼ばれる話し合いの場が設けられました。そこでの結論として、偶像に供えられたものやみだらな行いを避けること以外、異邦人クリスチャンに律法を強要しないことになりました。その時に付帯決議のような形で、エルサレム教会の貧しい人たちを援助するようにという申し送りがなされたようなのです。
パウロとしては、異邦人に対する寛容な決議がなされたことに対する感謝の思いが強かったのではないかと思います。それに答えるため、エルサレム教会の貧しい人たちへの援助を喜んで受け入れ、さらに異邦人クリスチャンたちにも、同じように感謝の思いから進んで援助しようと呼びかけ、それを実行したようなのです。
9章1節には「聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません」と語っています。すでに何通か手紙で募金の事を訴えていたのだと思います。ですから、これ以上書く必要はありませんと書いていますが、少し疲れが出て来ていたのかもしれません。もう少し頑張ってほしいというような励ましで9章が書かれているようです。
2節では「わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです」と語っています。アカイア州というのはコリントの町がある地域です。ですから、コリント教会では既に一年以上前から募金の準備が進められていたという事です。
【マケドニア教会の状況】
パウロはマケドニアの諸教会を訪ねた時、コリント教会で募金の準備が始められていることを紹介しました。すると、その報告を聞いたマケドニア教会の人々は、その働きの重要性を受け止め、大いに励まされて、その働きに加わったという事なのです。
マケドニア教会の働きについては8章に詳しく記録されています。マケドニア州にはフィリピ、テサロニケ、ベレアに少なくても3つの教会があったようです。これらの教会はとても貧しく、また、迫害によって苦しめられていたという事です。
8章2節を見ると「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」とあります。さらに3節、4節を見ると「わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした」と報告されています。
大きな苦しみの中にあるにもかかわらず、彼らの献げものは力以上のものだったのです。信仰の喜びのあるところでは、貧しさの中にあったとしても、イエスが語られたように「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉を生きるという豊かさが生まれるのです。そして、主の恵みに富んでいたために、わずかな財産に執着することなく、レプトン銅貨2つを献げた、あの貧しいやもめのように「誰よりも多く」献げる生活を身をもって行ったのです。
さらに、ここで一つ注意しておかなければならない事があります。それは8章と9章はエルサレム教会の貧しい人たちへの募金というテーマで書かれているにもかかわらず「募金」という言葉が8章20節に1回しか出てきません。その代りに新共同訳聖書では「慈善の業」と訳されている言葉があります。ギリシア語では「カリス」という言葉で、恵みと訳されることの多い言葉です。
つまり、パウロにとって、エルサレム教会の貧しい人々を助けるための募金活動は、同情的な行いや義務ではなく、恵みの業なのだという事なのです。マケドニア教会にとっても、コリント教会にとっても同じように恵みの業として受け止められているのです。
【コリント教会への励まし】
さて、3節以降を見ると、コリント教会での募金活動が、初めの勢いのままではなかったようなのです。パウロは、人を送って募金活動の進捗状況を確認させ、もし遅れているようなら、奮い立たせようとしたのです。
そうしなければ、マケドニア教会に報告したこと、去年から準備ができていると言ったことが嘘だったということになり、恥をかいてしまうというのです。
マケドニア教会の募金活動に対しては、コリント教会の募金活動は去年から準備ができていると報告し奮い立たせました。しかし、コリント教会の実情は、あまり進んでいなかった。そこで、今度はマケドニア教会の状況をテトスたちに報告させ、奮い立たせようとしています。
マケドニア教会は激しい試練の中にあっても喜んで献げました。なぜ、そんなことが出来たのでしょうか。私たちは試練の中にいる時、気持ちが落ち込んでしまいます。喜んで献げるどころか、喜ぶこともできません。そして、反対に「こんなに辛い、苦しい思いをさせる神に感謝なんかできない」と思ってしまうのではないでしょうか。
そして「受けるよりは与える方が幸いである」という、イエスの言葉など、どこかに吹き飛んで「誰も私に与えてくれない」と思ってしまうのです。また、試練の中にある時こそ信仰が大切だと誰かに言われたり、自分に言い聞かせようとするかもしれません。もし、そうやって自分に言い聞かせて解決するなら、それで良いでしょう。しかし、解決しないから厄介なのです。
そうだとするなら、開き直って「もうお手上げです」何もできません。と訴えたらいいのではないでしょうか。信仰とは、信じて仰ぐのです。仰ぐ時のポーズはお手上げと同じなのです。
また、マケドニア教会は自発的に献げました。自分たちで進んで慈善の業と奉仕に参加させてほしいと頼んだのです。教会の献金は会費やお賽銭とは違います。会費やお賽銭も自発的なものです。しかし、会費はそれを払うことによって見返り、メリットがあるのが一般的です。お賽銭も、お願い事を叶えてほしいから出すのです。
しかし、献金は方向が反対です。既に恵みが与えられていることに対する感謝の献げものなのです。マケドニア教会は迫害の中にありましたが、神からの恵みも与えられていたのです。それに気づいたということが幸いな出来事、恵みなのではないでしょうか。
【御言葉に促され】
テトスたちによってマケドニア教会の様子を伝えることで、コリント教会を励まそうとしましたが、それによってコリント教会での募金活動が活発になったのかどうかは分かりません。また、コリント教会で募金活動が停滞している理由についても記録がありません。
しかし、パウロはこの手紙の中で励まし続けているのです。今日はお読みしませんでしたが、9節には「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書かれています。この言葉は詩編112編9節が引用されたようなのです。
少し長いですが、詩編112編をお読みしたいと思います。
「ハレルヤ。いかに幸いなことか 主を畏れる人 主の戒めを深く愛する人は。
彼の子孫はこの地で勇士となり 祝福されたまっすぐな人々の世代となる。
彼の家には多くの富があり 彼の善い業は永遠に堪える。
まっすぐな人には闇の中にも光が昇る 憐れみに富み、情け深く、正しい光が。
憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。
主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼はとこしえに記憶される。
彼は悪評を立てられても恐れない。 その心は、固く主に信頼している。
彼の心は堅固で恐れることなく ついに彼は敵を支配する。
貧しい人々にはふるまい与え その善い業は永遠に堪える。
彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。
神に逆らう者はそれを見て憤り 歯ぎしりし、力を失う。
神に逆らう者の野望は滅びる。」
ここには主を畏れる人の幸いが書かれています。パウロはコリント教会の人たちを励まそうとして、一生懸命に手紙を書きました。それによって募金活動が活発になったのかは分かりません。人の業として、出来ることを一生懸命にすることは大切なことでしょう。しかし、その結果は神に委ねなければなりません。
さらに、人に思いを起こさせ、やる気を起こさせるためには、神の言葉が必要なのではないでしょうか。もちろん、この手紙が今、聖書として残っているのですが、コリント教会の人々は詩編の言葉に励まされたのではないかと思うのです。
そして、そこに書かれていることは、惜しむ心ではなく、感謝の心から献げる時、それは喜びの業へと変えられるという事なのではないでしょうか。
祈 り
賛美歌 新生653 いと良きものささげよ
献 金
頌 栄 新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷
後 奏
2024年6月23日 主日礼拝
投稿日 : 2024年6月23日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー