前 奏
招 詞   ヨハネによる福音書1章51節
賛美歌   新生120 主をたたえよ 力みつる主を
開会の祈り
賛美歌   新生 73 善き力にわれ囲まれ
主の祈り
賛美歌   新生389 昔主イエスの蒔きたまいし
聖 書   創世記28章15節
                    (新共同訳聖書 旧約P46)
宣 教   「逃げてもいい」    宣教者:富田愛世牧師
【聖書の読み方】
 教会でこのようは話をするのはおかしいですが、よく初対面の人と政治と宗教の話しはするなと言われます。何故なら、コミュニケーションにおいて心理的な対立のもとになるからだという事です。
 確かに、最近のアメリカを見ていると、大統領選でだれに投票するかによって、対立が起こっています。アメリカを分断するという言葉がいたるところで、語られています。そして、それは宗教についても同じようなことが起こっています。
 日本に目を向けても、似たようなことが起こっていると思います。しかし、政治と宗教の話しというのは、タブーにしてはいけないと思うのです。政治というのは、私たちの暮らしにとって、非常に影響力の高い事柄なのです。最近、物価が上がって大変だと言いますが、その根底にあるのは政治による政策金利や様々な介入政策が影響を与えているわけです。
 宗教についても、何を信じているのかという本題は、難しい話として敬遠されがちですが、正月には初詣に行き、彼岸やお盆にはお墓参りに行くというのが、習慣、文化として浸透しているわけです。ちなみに、明治神宮に初詣に行く人は、松の内までに300万人と言われています。熱心な信者が多いと思われているイスラム教で、一生に一度は行かなければならないと言われているメッカ巡礼でさえ、年間200万人くらいだと言われているのですから、日本人の信心深さは驚異的だと思います。
 政治についても、宗教についても、最近の傾向としては、本質というより周辺の事柄に注目が集まり、その場しのぎ的に事を済まそうとしているように感じます。しかし、本質に目を向けないで、周辺の事柄だけを見ていると、大きな間違いを犯してしまうのではないでしょうか。
 今日の聖書では、そこに書かれている言葉や事柄の一部を抜き出す時、本来持っている意味とは違うものになってしまうことがあるので、注意しなければなりません。「見よ、わたしはあなたと共にいる。」という言葉は、私たちに安心感を与えてくれます。
 しかし、この言葉が語られた背景を知らなければ、その安心感がどれほど大きなものかを知ることができません。
【ヤコブの物語】
 今日は創世記28章15節だけを読みましたが、教会学校のクラスでは10~22節までを読みました。そこには「ヤコブの夢」という小見出しが付けられていて、ヤコブがべエル・シェバを旅立って、ベテルという場所に来た時のことが記録されています。
 ユダヤ人にとってアブラハム、イサク、ヤコブという3代続く族長の系譜はとても重要なものです。その最後に出てくるヤコブという人は、今まで読んできたように、創世記25章で兄エサウから長子の権利を奪いました。
 さらに27章では父イサクが、兄エサウに祝福を与えたいと語るのを、母リベカが盗み聞きし、イサクの祝福を弟であるヤコブが横取りするように計略を練りました。リベカの計略を聞き、最初ヤコブは父イサクを騙して、祝福を横取りするのは無理だと思ったようですが、母リベカの周到な計画を聞かされ、実行に移すのです。
 聖書を読むと、ところどころ腑に落ちない箇所もありますが、結果的には父イサクの祝福を弟であるヤコブが横取りしてしまうのです。それを知った兄エサウは、父イサクに他の祝福はないのですかと尋ねますが、父イサクは既に祝福してしまったのだから、もう何もしてやることが出来ないと語るのです。
 それによって兄エサウは、弟ヤコブを殺そうと考えるほど憎むようになるのです。そして、エサウの憎しみを知った母リベカはヤコブを逃がす計画を思いつき、祖父アブラハムの故郷で、兄ラバンの住むハランの地へと逃がすのです。
 ヤコブは住んでいたべエル・シェバからハランへと逃亡生活をおくることになるのですが、その途中、旅立ってから何日目になるのかは分かりませんが、べエル・シェバから、80キロくらい北にある、当時の町の名はルズという場所まで来ました。
 人間が一日に移動する距離は、食事や休憩を取ることを考えると30キロくらいだと言われているので、旅立ってから三日目くらいの事だと思われます。歩き疲れて、夜になったので、そこで眠りにつきましたが、夢を見たのです。
 その夢というのは、天から梯子のようなものが下りて来て、そこを神の御使いが上ったり下りたりしていたというのです。この上ったり下りたりするということは、神との交わりということを象徴しているそうです。
 つまり、神との交わりの中に入れられたヤコブに対して、神は「見よ、わたしはあなたと共にいる」と語りかけられたのです。
【安心できる場所】
 話を少し戻しますが、母リベカの中には、ヤコブを逃がそうとした時、もう一つの思いがありました。それはヤコブに妻をめとらせたいという思いでした。そして、その妻となるべき女性はカナンの地に住む女性ではなく、自分たちの故郷であるハランに住む一族の中から迎えたいという思いでした。
 ヤコブの中には、エサウから逃げたいという不安な気持ちと同時に、妻をめとることによって安心を得たいという二つの思いがあったのではないでしょうか。べエル・シェバの天幕に住んでいる時も、母リベカはヤコブの味方でした。しかし、それだけでは不安だったのかもしれません。安心を得るためには、もっと近しい人の助けが欲しいと願っていたのかもしれません。
 ヤコブは不安の中、安心できる場所を求めハランへと旅立ちましたが、私たちにとって安心できる場所とはどこでしょう? 皆さんご存じのように、私の家にはカフワという犬がいます。親ばかではなく、犬バカな見方かも知れませんが、カフワは保護犬だったというトラウマがあるからかもしれませんが、誰かが側にいないと不安になるようなのです。何かしてほしいというわけではありませんが、とにかく側にいて欲しいようなのです。
 犬と人間を同じように見てはいけないと思うのですが、以前いた教会には幼稚園が併設されていました。毎年の事ですが、4月に入園する子どもたちの中には、初めて親と離れて集団生活を始める子どもがいるのです。そうすると朝、お母さんと一緒に幼稚園に来るのですが、なかなかお母さんから離れることが出来ず、無理やりお母さんを帰すと、その後ずっと泣き続ける子どももいました。
 子どもにとって、親が側にいてくれること以上に安心感を得る場所はないのではないかと思うのです。ただ、最近ではそのような関係だけではない、残念な関係もあるのも事実ですが、その場合は、親の方も安心できる場所がないという事なのかもしれません。
 そして、その安心感は何かをしてくれるからではないのです。何かしてくれる必要はないのです。ただ側にいてくれるということが安心なのです。一緒にいてくれるということによって安心できるのです。
【逃げてもいい】
 3年位前に「逃げるは恥だが役に立つ」というドラマがTVで放映されていました。元々はハンガリーのことわざで「問題と向き合わず逃げることは普通に考えると恥ずかしいことだが、逆にそれが最善の解決策になることがある」という意味で使われるそうです。
 安心できる場所を求める時、それを「逃げ」と捉えることがあります。そして、先ほどのドラマのタイトルではありませんが、ほとんどの日本人は「逃げることは普通に考えると恥ずかしい」と思うのではないでしょうか。
 しかし、物事には様々な面があります。最近は多様性という言葉が流行り言葉のように使われるようになりました。物事を多面的に捉え、一面的に捉えてしまう愚かさから解放される必要があるのです。ですから「逃げることは恥ずかしいことだ」と一面的に捉えなくても構わないのです。時には逃げることによって最善の解決策が与えられるのです。
 子どもに限らずですが、不安や恐れの念を抱いている時は、恥ずかしいという思いから解放されて、安心できる場所に逃げればよいのです。安心できる場所で、一度落ち着いて自分自身を振り返り、さらには問題となっている事柄を見直していけばよいのです。
 そして、子どもに関しては、親に対する絶対的な信頼から安心感を得ることが出来るのです。何があっても守り、見捨てられる事がない、という漠然としているけれど、絶対的な信頼感なのです。
 人は皆、信頼できる誰かを求め、何かをしてもらえなくても、一緒にいてくれることを望んでいると思います。一緒にいてくれるだけでいいのです。先ほどペットの話しをしましたが、最近では人よりも犬や猫の方が信頼できる、一緒にいて楽だという方が増えています。きっと犬や猫は話しかけても、言葉を返さないからだと思うのです。ただ、一緒にいてくれるだけなのです。しかし、その「ただ一緒にいる」ということが人間には難しいのかもしれません。何か言いたくなってしまうのです。
 もちろん、言葉かけも大切です。しかし、言葉をかけることよりも一緒にいる。時間を共有しているという事の方が効果的な場合もあるのではないでしょうか。
 この聖書の中で神は「守り」「見捨てない」と語り、いつも私たちと共にいて下さると約束するのです。

祈 り
賛美歌   新生554 イエスに導かれ
献 金   
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏