前 奏
招 詞 マタイによる福音書18章22節
賛美歌 新生 1 聖なる 聖なる 聖なるかな
開会の祈り
賛美歌 新生284 救いの主なる恵みの神よ
主の祈り
賛美歌 新生330 み使いの歌はひびけり
聖 書 創世記33章1~7節
(新共同訳聖書 旧約P56)
宣 教 「疑う者と赦す者」 宣教者:富田愛世牧師
【和解とは】
先週は「平和を覚える日の礼拝」として、特別に平和交読文をご一緒に読み、平和を覚える時としましたが、メッセージは、特別、平和にこだわっていなかったように感じられたと思います。むしろ今日の箇所の方が平和というテーマに沿ったものとなっています。
ただ、メッセージの準備をしている時に8月の第2週が平和を覚える日の礼拝だということには気づいていましたので、この日だけは別の箇所からメッセージを語っても良かったのですが、敢えて順番通りにしました。
それは32章で、ヤコブは新しい歩みへと踏み出しているからなのです。その新しい歩みというのは、今までの価値観から、新しい価値観へ変えられたから踏み出すことのできる歩みなのです。
古い価値観のヤコブは自分で働きかけて祝福を奪い取っていました。しかし、新しい価値観のヤコブは足が不自由になり、自分で働きかけるのではなく、神の計画に気付かされていく歩みになるのです。
33章は20年ぶりにヤコブとエサウが再会するという感動的な場面です。しかし、ヤコブとエサウはそれぞれ全く違う思いで、再会の場へとやってくるのです。ヤコブはエサウの怒りをどのようになだめようか、そのことばかり考えていました。何と言って謝ろうか、さらに赦してもらうための贈り物はどうしようか、そんなことばかりを考えていたようです。現代的に言えば「金」で解決しようとしているように見えます。
そんなヤコブのところへ、エサウは走って来て、抱きしめ、首を抱えて口づけし、涙を流して喜び迎えているのです。二人は、というか、エサウは過去のヤコブからの仕打ちなど忘れてしまったかのような、歓迎ぶりでヤコブを迎え、赦すなどという言葉は必要ないように、ヤコブとの再会を喜んでいるのです。
物語としては、感動的に進んでいくのですが、本来、和解には何が必要なのでしょうか。それは、謝る事と赦す事なのです。そして、和解が成立するかしないかは、赦す側にかかっているのです。謝罪することももちろん大切なことですが、和解が成立するためには、その謝罪を受け入れて、赦すかどうかということが最重要な事柄なのです。
一般的な争いには、加害者と被害者がいます。ただ、どちらが被害者で、どちらが加害者かという区別が時には非常に難しい問題となります。ですから争いの解決においては、冷静に事柄を判断することできる第三者が必要になってくるのです。
そして、加害者と被害者が区別できる状態になったならば、まず、加害者が被害者に対して謝罪をするわけです。この謝罪も、事柄の本質を捉えていればよいのですが、表面的に事が過ぎ去るのを待つような謝罪ならば、何の意味もなくなってしまいます。テレビのニュースなどで、時々、謝罪している場面が流されますが、多くの場合政治家が事柄の本質には何も触れず、表面的に謝罪する際に使われる言葉を並べ立てた、気持ちの伴わない謝罪が流れています。
やはり、何が悪かったのかを理解して、自分の言葉で、自分の気持ちを表わさなければ、何も伝わらないのではないかと思います。
そして、その謝罪の思いが伝わったとすれば、今度は被害者が謝罪を受け入れ、赦すかどうかなのです。謝罪の思いが伝わっても赦せない時があります。そうなると和解は成立しません。反対に謝罪の思いが伝わり、被害者に赦す気持ちがあれば、和解は成立するのです。
さらに、もう一つ、和解が成立する場合があります。それは加害者が謝らなかったとしても、被害者が一方的に赦したとするならば、その一方的な赦しによって和解が成立するということも起こるのです。
【ヤコブの生き様】
ヤコブとエサウの関係について、もう一度振り返ってみるなら、ヤコブは母リベカのお腹の中にいる時から、エサウを押しのけようとしていました。そして、生まれてくる時も、先に出てきた長男エサウのかかとをヤコブはつかんで出てきたと記録されています。
二人が成長するとエサウは巧みな狩人になり、ヤコブは家畜の世話をし家業を手伝うようになりました。そして、ある時、お腹を空かせて狩りから帰って来た兄エサウに対して長子の権利を譲るなら食べ物をあげるという、不公平な条件を突きつけ、長子の権利を手に入れました。
また、父イサクが老い先長くないからエサウに祝福を与えようとして時、それを母リベカが盗み聞きし、ヤコブに祝福が与えられるように策略を練り、父イサクを騙して、祝福を騙し取りました。
そして、兄エサウの怒りから逃れるため叔父ラバンのいるハランへ逃げ、そこで妻をめとり、多くの財産を蓄えることが出来たのです。叔父ラバンとの関係も初めは良かったのですが、ヤコブが自分の財産を増やすようになった頃から疎ましく思ったようです。しかし、ヤコブの成功は、神からの祝福だということを知っていたラバンは、ヤコブを手元に置いておきたかったようなのです。
ある日、これも夢の中でのお告げですが、神の使いからカナンへ帰るように促されるのです。そして、カナンへ帰る決意をするのですが、初めはラバンに告げずに、ひそかに逃げ出すのです。
【ヤコブに走り寄るエサウ】
カナンへ帰るということは、当然の事としてエサウとの再会が待っているという事です。ヤコブの中には長子の権利を奪い、父イサクの祝福まで奪ってしまったのだから、エサウの怒りが収まっているのか不安だったに違いありません。また、母リベカは27章45節で、エサウがヤコブのしたことを忘れた頃に使いの者を送り、連れ戻すと約束していました。しかし、使いの者が来たという記録はありません。
ヤコブは兄エサウの怒りは収まっていないと思い、不安と恐れの中にいたのです。しかし、神の言葉に従わないわけにもいかなかった、究極の選択を迫られ、恐れと不安はあったけれど、カナンに帰る決断をしたのです。そして、カナンに近づいた時、先に使いの者をエサウのもとに送り、様子をうかがわせているのです。
エサウは使いの者たちに400人のお供を連れてヤコブを迎えに出ると語りました。しかし、その答えを聞いたヤコブは、さらに恐れの思いを強くし、エサウに仕返しされてしまうのではないかと思い込んでしまうのです。恐れの思いを抱いている時は、あらゆることを否定的に捉え、恐れが恐れを産んでしまうようです。そして、一族を三つに分け、一つの組が攻撃されても、残りが逃げられるように、準備万端整えたのです。
そして、エサウを前にしてヤコブは七度、地にひれ伏して挨拶をしているのです。しかし、ヤコブを待っていたのは、遠くから自分を見つけると走りより、抱きしめ、口付けし、再会を喜ぶ兄の姿でした。
先ほど和解する時の条件をお話しましたが、エサウはヤコブから謝罪の言葉を聞き、その謝罪を受け入れたのではなく、最初からヤコブの事を赦していたようなのです。ヤコブはエサウに赦してもらおうと用意周到、準備してきましたが、準備すればするほど不安になり、エサウに対する恐れ、疑いが大きくなりました。それに対してエサウの気持ちはどこにも記録されていませんが、400人のお供を連れて迎えに出るということは、長旅で疲れているヤコブの手助けをしようと思ったのではないでしょうか。
この物語はイエスの「放蕩息子」のたとえ話のモチーフにもなっているという事です。エサウと神を同列に見ることに問題を感じるかもしれませんが、一方的な赦しという点において、エサウの態度は神の許しに通じるものがあるのです。
【神との和解】
ヤコブはエサウとの関係を修復し、和解するために長い年月を必要としました。具体的に20年という月日が流れ、その間に様々な経験を重ね、ヤコブ自身が成長していったのだと思います。そして、ペヌエルでの出来事を通して、足が不自由になったことにより、自分で成長したのではなく、神が共にいてくださったから成長できたということに気付けるようになったのです。
今日のタイトルは「疑う者と赦す者」としました。しかし、この二つを対立軸に置こうとしているのではありません。ヤコブは疑う者でした。しかし、肯定的に見るならば、危機管理能力の優れた者でもあるのです。そして、エサウは赦す者です。長子の権利を食べ物と交換するような浅はかな愚か者と映るかも知れませんが、心の大きな赦す者なのです。どちらが良いとか、悪いという事ではありません。それぞれの特質なのです。
二人の兄弟は母親のお腹の中にいる時から「押し合っていた」のですから、20年以上の年月をかけ、和解することが出来ました。多くの場合、和解することによって、昔のような関係に戻れると思うかも知れません。しかし、この二人の場合、昔から関係が良くなかったので、昔の関係に戻れたわけではありません。
昔、良い関係が結べていて、何かのきっかけでその関係が壊され、時間が経ってから和解することが出来たとするなら、昔の関係に戻れるのかもしれませんが、そうとは限らないのが人間関係なのです。それほど、人間同士の和解は難しい課題なのです。
しかし、聖書はそこに大きな希望を与えています。それは神との間に和解が成立しているという福音なのです。先ほど、ヤコブとエサウの物語がモチーフとなって、イエスの語る放蕩息子のたとえ話があると言いました。放蕩息子の父親は、いなくなってしまった弟を待ち続けていたのです。そして、帰って来た時、何の条件も付けず、もろ手を挙げて喜び、迎え入れているのです。
一方的に、条件なしで赦してくださるのが、神の愛の大きさなのです。そして、神は、その愛の故に私たちを愛し、その罪を赦し続けておられるのです。
祈 り
賛美歌 新生467 罪は緋のごと
献 金
頌 栄 新生672 ものみなたたえよ(B)
祝 祷
後 奏
2024年8月18日 主日礼拝
投稿日 : 2024年8月18日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー