前 奏
招 詞   ローマの信徒への手紙9章6~7節
賛美歌   新生  1 聖なる 聖なる 聖なるかな
開会の祈り
賛美歌   新生 19 くすしき主の愛
主の祈り
賛美歌   新生463 こころの扉
聖 書   創世記35章9~10節
                  (新共同訳聖書 旧約P60)
宣 教   「相続の地」    宣教者:富田愛世牧師
【パダン・アラムから】
 今日は創世記35章9~10節を読んでいただきましたが、ヤコブの物語は今日で終わりになります。そして、9節を見ると「ヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき」となっていて、振り返りながら、もう一度確認しているようなのです。
 このパダン・アラムとはユーフラテス川の上流地域を指していて、ハランの町があった地方になります。つまり、ここで語られているのは、ラバンの家から一族と全財産を持ち出してからの事が語られているので、簡単に振り返りたいと思います。
 31章に「ヤコブの脱走」という小見出しがつけられています。ラバンの家にいたヤコブに対して神は祝福を与えられました。その結果としてヤコブの財産は増えましたが、ラバンやその息子たちの妬みの対象にもなってしまったのです。それはヤコブにとって不安と恐れの原因になったのです。
 そのような時に神からの声が聞こえました。それはカナンへ帰るようにと促すものだったのです。ヤコブはその声に答え、ラバンには内緒で、一族を引き連れてハランを出発しカナンへと向かいました。しかし、ヤコブが逃げ出したことに気付いたラバンは、すぐに追いかけギレアドの山地でヤコブに追いつきました。
 ラバンが怒っていたのか、どうかは分かりません。ただ、31章24節を見るとラバンが寝ている時に、神が「ヤコブを一切非難しないように」と語りかけているのです。ですから、最初は黙って逃げたことに対して怒っていたかもしれませんが、追いついた時には怒りの感情ではなくなっていたかもしれません。ただ一つ、追いかけなければならない理由があったのです。
 それは、何者かがラバンの守り神を盗んでいったというのです。ラバンはヤコブが守り神を盗んでいったと思い、その場ですべての持ち物を出させて探すのですが見つかりませんでした。しかし、なぜなのかは分かりませんがラケルが、その守り神を盗んでいたようなのです。
 ラケルが盗んでいたのですが、ヤコブの疑いは晴れました。そして、ヤコブとラバンとの間に契約が結ばれることになるのです。お互い別々の生活を営むようになるので、ラバンはヤコブに対して責任をもって娘たちを幸せにするように約束させ、さらに、お互いの間では敵意を持つことがないようにという契約を結んだのです。
【エサウとの再会】
 ラバンのもとを、お互いの同意の上、去ることのできたヤコブは次にエサウとの再会のための準備に入りました。初めにしたことは、エサウのもとへと使いの者を送ることでした。エサウの様子を知りたかったのだろうと思うのです。
 ヤコブはラバンのところへ逃げる時、母リベカから、兄エサウの気持ちが落ち着いたら、使いを送り連れ戻すと約束されました。しかし、この時まで、リベカからの使いが来たという記録はありません。ということはエサウの怒りは、まだ収まっていないということかもしれないとヤコブは考えていたのです。
 そんなヤコブのもとへ使いの者たちが帰ってきました。その報告の内容は、エサウは400人の者を連れて、ヤコブを迎えに出ているという事でした。この400人が何を意味しているのかは、はっきりしません。もしかすると、20年前、ヤコブを殺そうと考えていた、その気持ちが今もそのまま残っていて、ヤコブ一族を襲うための兵かも知れない、ヤコブはそう考えたのではないでしょうか。
 しかし、反対の意味があるかも知れないのです。それは33章で再会した時のエサウの態度からの想像です。エサウは再会した時、ヤコブのもとへ走って行って、抱擁しているのです。そこには完全な赦しの態度が現わされているのです。
 エサウがいつの時点で赦すようになったのかは分かりません。しかし、初めから赦していたとするならば、この400人は、ヤコブ一族を護衛するための人たちだったのかもしれません。ヤコブにとって慣れない土地であり、先住民から攻撃される可能性もあるし、盗賊に襲われる可能性もあったのです。
 ただ、これはあまりにもエサウを美化しすぎた想像なのかもしれません。しかし、このエピソードを元にして、イエスが放蕩息子のたとえ話をされたという解釈があります。そうだとするなら、イエスもまた、エサウの事をこれくらい美化した可能性もあるのではないかと思わされるのです。
【ヤコブへの祝福】
 さて、9節の後半を見ると、神はパダン・アラムから帰って来たヤコブを祝福したと記録されています。ただ、このパダン・アラムから帰って来た時が、どの時点なのかがはっきりしません。
 ヤボクの渡しを渡った時なのか、それともエサウと再会した時なのか、様々な見方があると思います。ですから、これがその祝福ですと限定することが出来ません。さらに、ヤコブの受けた祝福は様々なものがありました。
 第一は、ラバンとの関係において、ヤコブは自分の財産をすべて持って帰ることが出来たという事です。自分で得た財産なのだから当然と思われるかもしれませんが、その原資となるものはラバンのものだったはずです。ラバンの家畜の群れの世話をする中から報酬として少しずつ財産を増やしていったのです。
 ラバンの家から出ていくことを許され、その娘たち、孫たちを連れて帰ること、そして、その財産を持ち帰ることが許されたというのは、当たり前の出来事ではなく、神からの祝福の出来事だと捉えることが出来るのです。
 次にペヌエルでの格闘がありました。夜、神の人が現れ、ヤコブと格闘するのですが、なかなか勝敗がつかないでいると、神の人が「夜が明けるから去らせてくれ」と頼みました。それに対して、ヤコブは祝福を要求しているのです。
 そこで神の人はヤコブに対して「イスラエル」という名を与えました。さらに、この格闘で足を痛めました。不自由になるということをヤコブは求めていませんでした。しかし、神は祝福として不自由を与えられたのです。それによって神が共にいてくれるということを、頭だけでなく身をもって知ることが出来たのです。
 そして、三つめはエサウとの和解です。ただし、ヤコブは最後まで、エサウに対する恐れから解放されず、エサウに対する疑いを持っていたようなのです。しかし、エサウは無条件でヤコブを赦しているのです。この和解の出来事も神からの祝福なのです。
【新しい名】
 そして、10節でもう一度「あなたの名はイスラエルだ」と確認されています。このイスラエルという名前について、32章29節で神と人と争って勝ったからだと名前の由来が語られ、そこから「神は争われる」とか「神と争う者」という意味だと言われてきました。
 正確な意味については分かりませんが、最近の研究によって「神が支配される」とか「神が護られる」という解釈が一般的になっています。
 そこには神との約束が大きく関係しているのです。アブラハムとの契約が基本となっていて、それがずっと続いているのです。そして、その時々において確認されたり、新たな付帯条項のようなものが加えられたりしているのです。
 ヤコブはエサウの関係にしても、私たちは勝手に兄弟だから仲直りしてほしいと思うかも知れませんが、聖書を読むと、仲直りしているわけではありません。もちろん敵対関係にあるのではありませんが、それぞれに別の道を歩むようになるのです。
 それは25章23節で神がリベカに告げた「二つの国民がお腹の中にいて、兄が弟に仕えるようになる」という、神の計画が実現しているのです。そして、ヤコブもエサウも、その計画の中を歩まされているのです。
 私たちが勝手にイメージする「仲良し」の関係ではなく、ヤコブとエサウが二つの国民の祖先となることが、神の計画なのです。そして、当時の常識だった家父長制からの解放が語られているのです。弟は兄に仕え、その兄がやがて父になり、一族の長になるという常識は、神が望んでいたものではなかったのです。
 聖書を通して、神は家父長制からの解放を語っているのです。しかし、頑なな人間はそれを拒み、家父長制に留まり続けてしまったのです。同じように、この地を相続するという言葉も、限定的な土地としての意味ではなく、神との関係、信仰の話しとして受け取らなければならないのです。神が与えられた土地に住むとは、イエスが語られたように、与えられた信仰によって、神を、そして、自分と同じように隣り人を愛することなのではないでしょうか。

祈 り
賛美歌   新生386 あまつ真清水
献 金   
頌 栄   新生672 ものみなたたえよ(B)
祝 祷  
後 奏