前 奏
招 詞   使徒言行録7章9~10節
賛美歌   新生 20 天地治める主をほめよ
開会の祈り
賛美歌   新生496 命のもとなる
主の祈り
賛美歌   新生 41 いとも慕わしきイエスの思い
聖 書   創世記37章18~27節
                     (新共同訳聖書 旧約P64)
宣 教   「ねたみの果て」    宣教者:富田愛世牧師
【ヤコブの子ヨセフ】
 今日からヨセフ物語に入ります。そういうわけで、初めにヨセフとはどのような人物で、その生い立ちがどのようなものだったのかを振り返ってみたいと思います。
 ヨセフの父は前回まで読んできた箇所の主役となるヤコブでした。前回のところで、イスラエルという新しい名前を神から与えられていますが、ここではヤコブにしておきます。このヤコブには二人の妻がいました。この二人は姉妹でした。今の私たちの常識から考えると、妻が二人ということで、ヤコブという人は非常識に映りますが、当時の世界では有能で、財産のある男が複数の妻を持つということは常識的に赦されるというより、そうしなければならないくらいの感覚だったようです。
 ヤコブの妻の名は姉がレア、そして妹がラケルといい、ヤコブが愛していたのは妹のラケルだったのです。妻が二人いて、一方だけを愛しているというのも、私たちの感覚では理解できないのではないでしょうか。とは言え、日本でも昭和の初期頃までは、お妾さんをかこっている人がいたわけですから、妻が複数いた場合、好き嫌いがあっても不思議はないのかもしれません。
 ヤコブはラケルを愛し、レアをないがしろにしていたという事ですが、神は、ないがしろにされていたレアを憐れんで、レアにたくさんの子どもを授けられたようです。
 順番で行くと、最初レアには4人の子どもが続けて与えられました。それを妬んだラケルは自分の女奴隷ビルハを側女としてヨセフに与えて2人の子どもが与えられました。それを知ったレアは同じように自分の女奴隷ジルパをヨセフに与え2人の子どもが与えられました。その後、レアに2人の子どもが与えられ、レアには合計6人の子どもが与えられるのです。当時の考え方からすればレアは出来過ぎた妻だったということになるのです。
 その後、神はラケルの事も心に留められ、ラケルにも男の子が与えられます。それがヨセフだったのです。子どもの話としては、その後、しばらくしてからラケルはもう一人ベニヤミンという男の子を産むのですが、そのお産でラケルは亡くなってしまいました。
 年をとってから生まれた子であり、さらに愛するラケルの子だということで、ヤコブはヨセフを特別にかわいがっていたのです。
【ヨセフの夢】
 さて、そのヨセフが成長し、17歳になった時のことが今日の聖書に記録されているのですが、ヘブライ語聖書において神は、たびたび夢の中でその計画を示されました。
 ヤコブが兄エサウを恐れ、叔父ラバンのところへ逃げた時、途中のベテルで神は夢の中でヤコブに現われ「あなたと共にいる」と励ましています。さらに、ヤコブがハランからカナンへと帰還する決意を現したのも、夢の中で神から「カナンへ帰りなさい」と告げられたからです。
 神はヨセフの父であるヤコブに夢の中で語られたように、ヨセフに対して夢の中で、御自身の計画を示されたのです。最初の夢は37章5節以下に記録されていて、畑の中でヨセフの麦束が立ち上がると、周りにいた兄たちの麦束がひれ伏したというのです。
 この夢の話をヨセフが兄たちにしたところ、兄たちは、今まで以上にヨセフを憎むようになったというのです。兄たちも大人げないですが、ヨセフも17歳になっているにも関わらず、周りの空気を読まず、ぬけぬけとこのような夢のはなしをするのですから、天然というか、おおらか、素直な性格だったのか、もしくは父親から甘やかされて育ったのですから、おもいきり傲慢な性格だったのかもしれません。
 続きを読むと、今度は太陽と月と11の星がヨセフにひれ伏す夢を見たというのです。家父長制の世界に生きる一族ですから、今度は父ヤコブもヨセフを叱っているのです。そして、兄たちにとっても怒り心頭、もう許せないという状況になっていたようなのです。
【神の計画】
 ところで、私たちはよく秩序という言葉を口にしたり、耳にしたりすると思うのです。秩序はとても大切なものだと思います。秩序がなければ混乱してしまう訳ですから、必要なものだと思うのです。
 しかし、家父長制という制度における秩序に関しては、はて?と考えさせられることも出てくるのです。当時の家父長制という世界では、弟が兄たちよりも偉くなるとか、その両親までが膝をかがめるようになる、ということは考えられないことでした。もし、そうなったとするなら、家族という秩序が混乱して、最終的には崩壊してしまうということになります。
 ただ、こういったことは、現実ではなく、理論上の仮定でしかないと思うのです。実際に、その家族の中で親や年長者が権力を持ち、財産権を独占することによって、その一族が繁栄するのでしょうか。もちろん、繁栄する一族もいれば、衰退していく一族もいるわけです。秩序を守ったからといって、望ましい結果が与えられるわけではありません。ここで一般論について語ってもしょうがないので、聖書に戻りたいと思います。
 ここで神がヤコブ一族に対して問いかけていることは、「兄が弟に仕える」という父ヤコブにおいて実現した計画なのです。10節で父ヤコブはヨセフを叱っています。これだけを読むと、ヤコブは自分の人生において神が逆転の結果を与えられたことを忘れて、常識的なことを言うようになったのかとあきれてしまいそうですが、11節の最後を見ると「父はこのことを心に留めた」とあるので、少し安心します。
 ヤコブ自身、家父長制の世界に生きていましたが、そうならない現実を経験しました。そして、神の計画が成るということを経験したのです。ですから、ヨセフの見た夢を聞きながら、頭では「有り得ない」と理解して、叱ってしまうのです。しかし、心の中では神の計画であるならば、それが現実になると理解し、心に留めておいたのではないでしょうか。
【妬みの的】
 しかし、家父長制というしがらみから解放されない兄たちにとって、ヨセフは目障りな存在でしかありませんでした。37章3節を見ると「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった」とあります。そして続く4節には「兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」とあるのです。
 ただ、ここには「兄たち」となっていて、もう一人の兄弟、つまり、弟の存在が出てきません。ヨセフにはベニヤミンという弟がいたはずなのです。ですから「年寄り子」ということでヨセフをかわいがっていたとするならば、ベニヤミンも同じようにかわいがっていたと思うのです。
 しかし、そのことには触れていません。もしかするとベニヤミンが産まれた時、愛する妻ラケルが死んでしまったので、ベニヤミンを産まなければ、ラケルは死ななかったと思ったかもしれません。しかし、ラケルの忘れ形見として、受け止めることもできたと思うのです。ベニヤミンに対しては複雑な思いがあったのではないでしょうか。
 さらに10人の兄たちから見れば、ヨセフは母親が違うので、同じように接してはいなかったと思います。様々な要因が絡み合っていたのですから、兄弟といってもその関係は複雑なものだったと想像します。
 そんなヨセフを父ヤコブは一人で兄たちのところへ遣わしていますが、ヤコブは子どもたちの関係性について気付いていなかったのでしょうか。ここにも家父長制社会の悪い面が出ているように思えます。子どもの面倒は母親の仕事として、気にも留めていなかったのではないでしょうか。
 ヤコブは自分にとって、お気に入りのヨセフだけを見て、他の事には無関心だったようなのです。そして、ヨセフとしても、いつも父ヤコブに守られ、他の兄弟については無関心だったのかもしれません。
 そんなヨセフが、それも一人でノコノコとやってきたわけですから、兄たちの妬みの思いは抑えきれなくなってしまったのです。ヨセフを殺そうと思っても不思議ではないのです。しかし、長男のルベンが「命まで取るのはよそう」と制止しているのです。きっと長男としての責任感のようなものがあったのではないでしょうか。そして、四男のユダが通りかかったイシュマエル人の商人に売ってしまおうと提案し、殺すという最悪の事態は免れたのです。しかし、ヨセフはミディアン人の商人によってイシュマエル人に売られてしまうのです。

祈 り
賛美歌   新生516 みそば近くなお近く
主の晩餐  
献 金   
頌 栄   新生672 ものみなたたえよ(B)
祝 祷  
後 奏