前 奏
招 詞   フィリピの信徒への手紙3章13~14節
賛美歌   新生 20 天地治める主をほめよ
開会の祈り
賛美歌   新生556 恵みの高き峰
主の祈り
賛美歌   新生445 心静め語れイエスと
聖 書   創世記41章50~52節
                        (新共同訳聖書 旧約P73)
宣 教   「親の思い」    宣教者:富田愛世牧師
【夢の話】
 前回のお話は、ヨセフが無実の罪で監獄に入れられたところまででした。今日は、その続きを簡単にお話してから進めていきたいと思っています。
 ヨセフが収監された監獄は39章20節を見ると「王の囚人をつなぐ監獄」と書かれています。それは政治犯のような犯罪者を収監する所だったようです。神はこの監獄の中においてもヨセフと共におられ、ヨセフは監守長から厚遇され、囚人たちのリーダー的な役割を任されるようになるのです。
 ヨセフが収監された後、二人の囚人が収監されました。一人は王の宮廷の給仕役の長、もう一人は料理役の長ということでした。ある日、二人が同時に不思議な夢を見ました。その夢のためにふさぎ込んでいたので、ヨセフがどうしたのかを尋ねたところ、夢の話をしたようなのです。そして、ヨセフは、それぞれの夢の解き明かしをするのです。
 そして、その夢の解き明かしの通り、給仕役の長は釈放され、料理役の長は死刑になってしまうのです。ヨセフは給仕役の長に、釈放されたらファラオに自分のことを話して、釈放されるように取り計らってほしいと頼むのですが、この給仕役の長は、そのことをすっかり忘れ、2年の月日が経ってしまうのです。
 そんなある日、ファラオが不思議な夢を見ました。そして、その夢の解き明かしをするよう王命を出すのですが、誰も解き明かしができませんでした。そんな時に給仕役の長がヨセフの事を思い出し、ファラオに進言するのです。
 ファラオはすぐにヨセフを呼び出し、夢の解き明かしをさせました。ヨセフはファラオの夢を解き明かし、これからファラオがすべき事、夢の出来事への対策について進言しました。このヨセフの夢の解き明かしと、今後の対策についての計画を聞いたファラオはヨセフの知恵に感服し、ヨセフをすぐに抜擢し、エジプトのナンバー2、総理大臣や大統領のような役目につかせるのです。
【ファラオの姿勢】
 以上のようなことの後、今日の聖書箇所に入っていくのですが、ここで、まず見ていくべき点として、ファラオという王の姿勢です。
 日本で習う世界史では、古代の四大文明というものが語られています。世界の文明の始まりは、ナイル川流域のエジプト文明、チグリス、ユーフラテス川流域のメソポタミア文明、インダス川流域のインダス文明、黄河と長江流域の中国文明だと言われています。その中のエジプト文明を継承している帝国がエジプトです、その王さまですから、一国の王というより、当時の中近東世界において、強大な力を持っていたはずです。
 強大な帝国の王というと、威張り散らして、傲慢な独裁者というイメージを持つことが多いのではないかと思います。その時代を知る手掛かりは、口伝伝承として語り継がれている物語や伝説、残されたわずかな文献のようなものしかありません。そのような記録によれば、やはり独裁者的な王の存在がほとんどなのかもしれません。
 ところが、今日の聖書を読む限り、エジプトのファラオは、そのような独裁者的な王ではなさそうなのです。たまたま自分が見た、不思議な夢のせいで心が騒ぎ、エジプト中の魔術師や賢者を呼び寄せ、夢の解き明かしを命じているのです。そして、誰も解き明かすことが出来ないとなった時、家来の進言を受け入れ監獄に収監されているヘブライ人から夢の解き明かしを聞こうとしているのです。
 この姿勢は、エジプトという帝国の大王の姿勢ではないと思うのです。謙虚さを持ち、既成概念に捉われず、何でも受け入れることのできる、心の広さと度量の大きさを持っているのです。
 ここでヨセフの事を「ヘブライ人」と語っていますが、ヘブライ人とは人種的な意味の言葉ではないようなのです。聖書にはユダヤ人、イスラエル人、ヘブライ人という書き方があり、どれも同じユダヤ人の事を指していると思われていました。しかし、それぞれに意味しているものが違っていて、ヘブライ人というのは、安住の地を持たず、農業や牧畜をしながら、広い地域を流浪する、身分の低い民の事を指しているようです。
 ファラオは、そんなヘブライ人であるヨセフの言葉を聞き、受け入れ、それをすぐに政策に取り入れようとするのです。さらに、その政策の責任者として、ヨセフを大抜擢するのです。何故そんなことが出来たのでしょうか。ファラオ自身が寛大な心をもって、人を分け隔てなく見て、この政策を考えた者が、それを実行するのに一番ふさわしいという事を理解していたからなのです。当然の事ですが、大人の事情、しがらみの中で出来ない人があまりにも多すぎるのかもしれません。
【ヨセフの姿勢】
 このようなファラオの姿勢というものは、とても大切ですが、それだけではなく、ヨセフの姿勢についても見ていきたいと思います。
 ヨセフは17歳の時、兄たちの妬みや憎しみによって、エジプトへと売られてしまいました。そして、ポティファルというエジプトの高官の家で奴隷として働くのですが、神が共にいてくださったことと、ポティファルという有能な主人に仕えることが出来たことによって、ポティファルの家で重要なポストが与えられるのです。
 父ヤコブの家にいた時には、唯一の神に仕えていたはずです。しかし、異教の地で奴隷としての生活を余儀なくされてしまいました。その信仰はなくなってしまったのでしょうか。聖書にははっきりとは記録されていません。しかし、主が共にいてくださるという言葉が何回も出てきます。
 また41章16節を見ると、ファラオから夢の解き明かしができるそうだが?と質問された時に「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」と語っているので、神の存在を信じ、神の力の偉大さを信じていたことが分かるのです。
 聖書の語る、唯一の神を信じる信仰を持っていました。しかし、ヨセフは頑なに、自分の信仰や主義、主張を通そうとしているわけではありません。この後、モーセによって律法が与えられると、次第に律法主義的な信仰を持つ人が増えていきますが、ヨセフはそのような頑なな信仰ではなく、もっと自由な信仰を持っていたようなのです。
 異教の地で暮らさなければならない、という背景が関係しているのかも知れません。エジプトの習慣を受け入れようとしているのです。まずは名前です。41章45節を見ると「ファラオは更に、ヨセフにツァフェナト・パネアという名を与え」と書かれています。名前を変えるという事を無批判に肯定するつもりはありません。ただ、ここではヨセフは受け入れているのです。
 そして、続きを読むと「オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻として与えた」と書かれています。イサクやヤコブの妻は、それぞれ故郷からという流れがありましたが、ヨセフについては、そのようなことはなく、エジプト人であり、異教の祭司の娘を妻として迎えているのです。
 この時、ヨセフは30歳でした。17歳でエジプトに売られ、ポティファルのもとで働き、無実の罪で獄に入れられ、給仕役の長が釈放されてから2年経って、ヨセフも釈放されました。そして、豊作の7年間エジプト中を回り、備えを万全にするのです。
【親の思い】
 そして、50節を見ると飢饉の年が来る前に、ヨセフには二人の子どもが与えられたと記録されています。長男をマナセ、次男をエフライムと名付けました。この二人の子の名前には、ヨセフの父親としての思いが込められていたのです。
 ちなみに、私の名前はここから取られています。よく列王記や歴代誌に出てくる王の名前だと思われていますが、そちらではなく、ここからなのです。
 マナセという名前には、忘れるという意味があります。よく「いやなことは覚えていて、良いことはすぐに忘れてしまう」と言われることがあります。神からの恵みや祝福という事を例に出すと「なるほど」と思われる方がいるかもしれません。
 そして、ヨセフは「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった」と語るのです。これはヨセフの宣言なのです。過去の苦しみを神は忘れさせてくださったと宣言しているのです。
 この宣言するという事が大切なのです。出来るか、出来ないかではなく、自分の意志が何処にあるのかを確認するために宣言するのです。この後、ヨセフを売った兄たちがエジプトにやってきます。その時、ヨセフは兄たちが、自分を売った後、どんな思いをしていたのか確かめます。そして、赦しているのです。その赦しは、この時「忘れる」と宣言したことによって、ヨセフの心に変化が起こったという事ではないでしょうか。
 次にエフライムという名前には、増やすという意味があります。神はヨセフの子孫を増やすと約束してくださるのです。この時は、まだ4人家族だったはずです。しかし、神が約束してくださったことに対して、ヨセフは同じように宣言するのです。
 「神は、悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった」この時点でヨセフは4人家族でした。ですから「増やしてくださるであろう」という神への期待でも十分信仰的な態度だと思います。しかし、増やしてくださったと完了形で書かれています。まだ目で見ていませんが、信仰の目で見えているのです。
 今、神の前に私たちにも宣言することが求められているのです。過去の嫌な思い出を忘れますと。そして、神は私の人生において、すでに最善の道を備えてくださったと。

祈 り
賛美歌   新生470 この世の楽しみ
献 金   
頌 栄   新生672 ものみなたたえよ(B)
祝 祷  
後 奏