前 奏
招 詞 マタイによる福音書10章19節
賛美歌 新生 14 心込めて主をたたえ
開会の祈り
賛美歌 新生304 主の血に贖われ(B)
主の祈り
賛美歌 新生415 わが主よ ここに集い
聖 書 エレミヤ書1章4~10節
(新共同訳聖書 旧約P1172)
宣 教 「若者の声」 宣教者:富田愛世牧師
【エレミヤ書】
先週は休暇をいただき、ありがとうございました。心も体もリフレッシュして、帰ってきました。などという挨拶が似合わない年齢になっているわけですが、気持ちの上では正直な思いです。ただ、気持ちと肉体とは同じにならないという事を、様々な場面で経験するようになりましたが、マイナスなことだとは思っていません。
出来たことが、出来なくなるという事を否定的に捉えるのが、一般的かも知れません。しかし、出来たことが、すべてしなければならないことではなく、もうしなくて良いことになったと考えても良いのではないかと思います。そして、実際にしなくても何の差し支えもないので大丈夫なのだなと思っています。
さて、今日から聖書教育の箇所がエレミヤ書になりました。アドベントまでの二ヶ月間、エレミヤ書を読んでいくのですが、最初にその書かれた時代背景から見ていきたいと思います。
今日は4節から読んでいただきましたが、1節から3節までにエレミヤという預言者が活動していた時代の事が記録されています。初めにエレミヤとは、どのような人物だったかという事が書かれ、ベニヤミンの地に住む、アナトトの祭司ヒルキヤの息子とあります。
ベニヤミンの地とは死海の北側で、ヨルダン川からエルサレムを通って西に50キロ位、南北10キロ位の小さな地域で、アナトトという町はエルサレムの北東5キロ位にありました。そこで祭司の子としてエレミヤは誕生したようです。
祭司の子だから、祭司にならなければならないという事はなかったようで、エレミヤは祭司ではなかったようです。そして、ヨシヤ王の13年に預言者としての召命を受け、バビロン捕囚までの、約40年の間、活動していたようです。
そして、エレミヤが召命を受けた時のユダの王ヨシヤは、その祖父であるマナセ王がユダに取り入れた異教の信仰、習慣をことごとく取り除き、ユダにおける宗教改革を行った素晴らしい王でした。
ただ、残念なことですが、ヨシヤ王の子や孫たちは、主の目に悪とされることを行い、エレミヤを通して、神からの裁きを受け、最終的にはエルサレム神殿がバビロニアによって滅ぼされ、バビロン捕囚となってしまうのです。
【若者の特徴】
さて、今日の聖書箇所に目を移すと、4節には「エレミヤの召命」という小見出しが付けられています。エレミヤという青年に神の言葉が臨み、預言者としての召命を受ける場面なのですが、最初、神からの語りかけを聞いた時、「若者にすぎない」と言って、その召命を断ろうとしているのです。
「若さ」と聞いて、皆さんは何をイメージするでしょうか? ある人は肯定的なものをイメージして、若いからこそ何でもできる、または許されると思うでしょう。また、別の人は否定的な事柄をイメージして、若いからできないとか、若いから「まだ」できないと思うのではないでしょうか。
若い人の特徴は「イキイキしている」ということだとある文献に出ていました。実はこのネタ元を探そうとしたのですが、思い出せなかったので、インターネットで少しだけ調べてみました。「若い人の特徴」で検索したところ、「最近の若者の特徴」とか「若く見える人の特徴」等という項目ばかりで、一般的な「若い人」というのがすぐには出てきませんでした。
インターネットではよく分かりませんでしたが、私が覚えている「若い人の特徴」という事で言えば、ドーパミンという脳内物質の働きによって「嬉しい、楽しい、ワクワクする」といったポジティブな感情を生み出す神経物質が出ているそうです。
しかし、良い点ばかりではなく「若気の至り」などと言われるように、未熟、経験不足といった否定的な面もたくさんあります。先ほど「若いからまだできない」と例をあげましたが、経験不足という事が、若さを否定的に捉える時の大きな理由だと思うのです。ただ、そう言いながら経験すれば良いのかというと、年齢を重ねて、経験を重ねているにも関わらず、という人もいるので、一概には言えないように思えます。
エレミヤは神から預言者としての召命を受けた時「若者にすぎない」と言って断ろうとしました。そこには自信のなさ、不安という思いが働いていたと思います。これを読んでいる私たちの中にも「そうだよね」と言ってエレミヤの気持ちが分かると、同調する人が多いのではないかと思います。
しかし、神はそんなことお構いなしに「若者にすぎないと言ってはならない」と語り、お決まりのセリフを語るのです。それは「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」という事なのです。神が共におられると約束されたなら、何も恐れる必要はないという事なのです。
【神が用いる人】
ただ、神が共にいてくれると言ったからと言って、すぐにそれを受け入れることが出来ないのも、私たち愚かな人間の現実なのです。「でも」と言って、神の計画を受け入れることのできない理由を探し続けるのです。
そして、神の選びから逃げ切れなくなった時、「もう少し時間をください」と言って、時間稼ぎをしようとするのではないかと思うのです。実は今お話したことは、ほとんど私の経験からの事なのです。
やはり、私たちは自分の経験したことが、一番信頼できることだと思い込んでいるのだと思います。そして、それは決して悪いことばかりではないのです。私たちは経験を通して様々なことを学ぶのです。そして、何か事を起こす時にその経験が役に立つと思い込んでいます。
本当に役に立つのかどうかは分かりません。ある時には役に立つかもしれませんが、一事が万事ではなく、別の時には経験したことが、何の役にも立たないという事もあるわけです。つまり、自分の都合の良いように思い込んでいるという事なのではないでしょうか。
様々な経験を通して、思い通りになって、成功したと思える時は、何も言う事はありません。しかし、負の経験、つまり、失敗した時はどうなのでしょうか。失敗した時の対応は大きく二つあります。一つは、その経験を生かして、次は失敗しないようにしようという積極的な対応です。
もう一つは、失敗の経験によって、心が折れてしまい、次もまた同じような失敗を繰り返してしまうのではないかと不安になり、チャレンジすることを恐れてしまうという事もあるのです。これもまた、思い込みだと思うのです。
経験するという事は、プラスにも働きますが、マイナスにも働くのです。そして、神の計画の前では、これらの経験は無力どころか、計画の邪魔にさえなってしまうことがあるのです。
神がその目的のために、働き手を選ばれる時、その人が若くて未熟だとか、経験豊かだとか、そういった「人の力」は関係ないのです。そして、神が選ばれる働き人は、そのような「人の力」「経験」等に頼らない人を用いられるのです。
【年齢、経験不問】
しかし、そう言いながらも、祭司や預言者となると受け止める側のイメージというものもあると思います。現代的に見るならば、牧師や神父、仏教では僧侶に対するイメージがあるのは事実だと思います。
エレミヤ書が書かれていた当時、また、現代においてヘブライ語聖書を手にしている私たちにとって、預言者として立つ人の適齢はいくつ位なのでしょうか? 先ほど言ったように神の選びですから、適齢などというものはないはずですが、預言者の言葉を聞く側にとっては、適した年齢というものがあるのではないかと思います。
私たちは「人」を見てしまうので、できれば自分より経験年数の多い人をリーダーにしようと考えます。選挙権と被選挙権の年齢条件の違いなどはその一例ではないかと思うのです。国政や自治体の議員や長を選ぶ側の年齢は18歳以上となっていますが、選ばれる側は衆議院や地方自治体の長、議員は25歳以上、参議院や都道府県知事は30歳以上となっています。
年齢の差には理由があり、総務省によると、参議院は「良識の府」とも呼ばれ「思慮分別を衆議院よりもさらに求められるため」だそうです。また都道府県知事は「扱う地域や事柄がたいへん広く、知識や経験を他の自治体の長や議員より求められるため」ということです。
リーダー的な役割を担う人を選ぶ時、「若い人がいい」という意見もありますが、大半は経験豊かな人を選ぶのが現実ではないでしょうか。また、経験年数だけでなく、自分の価値観に合った事柄を経験した人の意見をありがたがる傾向があります。
しかし、預言者は神の言葉を語るのであって、リーダーである必要はありません。もちろん、リーダー的な役割を担う預言者もいますが、基本的にはリーダーとして選ばれるのではなく、神の言葉を人々に伝えるために選ばれるのです。
そして、その「人」にとって経験したことのない、未知の出来事であったとしても、そこに神の計画があるのならば、神の計画が最優先されるのです。その神の計画を人々に伝えることが預言者の役割なのです。
祈 り
賛美歌 新生634 キリストの愛われに迫れり
主の晩餐
献 金
頌 栄 新生673 救い主み子と
祝 祷
後 奏
2024年10月6日 主日礼拝
投稿日 : 2024年10月6日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー