前 奏
招 詞 テサロニケの信徒への手紙一4章1節
賛美歌 新生 14 心込めて主をたたえ
開会の祈り
賛美歌 新生431 いつくしみ深き
主の祈り
賛美歌 新生301 いかなる恵みぞ
聖 書 詩編37編23~24節
(新共同訳聖書 旧約P869)
賛 美 それは愛 聖歌隊
宣 教 「賜物を捧げてつながる」 宣教者:澤田ルツ子先生
本日はお招きに預かりありがとうございます。
今回どのような内容にするか相談する中で、市川大野教会の「2024年度 教会活動基本方針」を参考資料として富田先生が送ってくださいました。
2024年度聖句として市川大野のみなさんが掲げたエレミヤ書29章11節のように、神様のご計画が平和のご計画であり、将来と希望を与えるものであること、そして本日の聖書箇所、詩編37編23節「主は人の一歩一歩を定め 御旨にかなう道を備えてくださる。」このみことばは本当に真実であることをお分かちし、この市川大野教会がこの地にあってもっと主の御用のために用いられるようにと願っているみなさんへの励ましになりましたら幸いです。
まず一曲賛美をさせていただきます。
♪「一羽のすずめに」
心くじけて 思い悩み
などてさみしく 空を仰ぐ
主イエスこそ我が真の友
一羽のすずめに目を注ぎたもう主は
われさえも支えたもうなり
心静めて 御声聞けば
恐れは去りて 委ぬるを得ん
ただ知らまほし 行く手の道
一羽のすずめに目を注ぎたもう主は
われさえも支えたもうなり
声高らかに われは歌わん
一羽のすずめさえ 主は守りたもう
(私の自己紹介については先ほど富田先生にしていただきましたし、また午後交わりの時間をいただいていますので割愛いたします)
私の座右の銘の一つに「地の塩世の光」というみことばがあります。
マタイ5:13
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」(新共同訳)
私自身がまずしっかり神様の信仰に立つことを大切にしよう。そしてそのように信仰を持って世に立つクリスチャンとして自分が出来ることを実践して行こう。キリスト者として生きて行こう。「伝道」というとすごく難しく感じるのですが、信仰をもって一般社会でただ生きていく、それなら出来るかもしれない、とある時思いました。そして願わくば、そのように信仰を持って生きる私から、キリストの良い香りが漂うと良いなぁとも思う日々です。
キリスト教の香りが漂うように、まずいちばんにはみことばを蓄える必要があるだろうと思います。
私自身がみことばの恵みに預かり、神様の愛で満たされていると感じることが必要だろうと思います。しかしこれは日々の生活に紛れて、すぐに肉の思いで不平不満にまみれてしまうので、反省を繰り返すことになるのですが、いつも神様への感謝に溢れた生活をしたいなと願っています。
そして、模範的なクリスチャンでいたいなんて格好の良いことはとても言えないのですが、それでも少しでも「みことばの実践」を行っていきたいとも思うのです。
「みことばを実践する」というとすごく高尚なことに聞こえてしまうかもしれませんが、神様からいただいている賜物を惜しみなく誰かのために役立てることで、みことばを実践していることになるのかな、と考えます。
神様から与えられている賜物は誰にでもあります。
マタイによる福音書 25:14-18(新共同訳)イエス様が語るタラントンのたとえです。
「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。」
タラントンはタレントの語源であり、タレントは才能や能力と訳されます。
自分に与えられたタレント言い換えて才能・能力はこれっぽっちしかないから何もせず埋めておいた人は主人に叱られます。神様が与えてくださっている能力に自分の尺度で価値をつけて、自分には増やすほどの才能はないなんて言ってはいけない、自分自身で自分の価値を「これっぽっち」なんて言ってはいけないのです。
かくいう私も自分のことを「私なんて」と長らく思っていましたし、今でもたまに「私なんて」と思っていたりつい口に出したりします。
私は小さい頃からピアノを習っていましたが、何となくやめずにずっと習い続け、ある程度大きくなった高校生くらいの時には、とうとう「そんなにピアノを練習して、どうするの?(北海道弁で「どうするのさ?」)」と親戚から尋ねられました。音大に行くでもプロになるでもないのに、いい加減にしたら?というニュアンスだったように感じています。当時、音楽療法学会が日本で発足するのはまだ少し後で、音楽療法士になるには、海外で学ぶしか選択肢はなかったですし、あとは音大に行ったところでプロになるには一握り。それこそ北海道を出て音大に進学して海外留学でもしないと。学校の音楽の先生にでもなるつもり?…と言われながらも、ピアノをやめませんでした。
そんな私が、本州の音大へも進学せず、留学もせず、今このようにして音楽療法士として、そして教会の音楽主事として働く道が用意されていようとは、思いも寄らないことでした。
「一羽のすずめに」を賛美しましたが、この歌詞のもとになった聖書箇所は、
マタイによる福音書 10:29 新共同訳
「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」
この聖書の並行箇所であるルカによる福音書を見ますと、
ルカによる福音書 12:6 新共同訳
「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。」
とあります。
マタイは、「2羽で1アサリオン」、ルカでは「5羽で2アサリオン」と、表現に少し違いがあることに気が付きます。
お金の価値は、昔1円が今の100円くらいの価値があった頃もあるように、時代で変わりますが、ここで1アサリオンと言っているのは、いかに安いかの例えです。
1アサリオンで2羽買えるすずめは、2アサリオンで4羽のところ、ルカでは5羽となっていますから、1羽はオマケだったのかもしれません。
このオマケのような1羽でさえ、父のお許しがなければ地に落ちることはない、と聖書は語ります。
マタイの「あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」という部分は、さらにギリシア語の原文に忠実に訳されている岩波版聖書では「しかしその中の一羽ですらも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない。」となっています。
父なしに地上に落ちない。
地に落ちる時は一緒に落ちてくださる。
そうイエス様は私たちに語ってくださっているのです。
本日の聖書、詩編37編23節のその一つ先の24節をお読みします。
「人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。」
人の歩みは主によって確かにされます。そしてその道の途上で例え私たちが失敗したりくじけたりして倒れたとしても、まっさかさまに倒されはしない。切り捨て投げ出されるようなことは決してありません。
フットプリンツ(footprints)という詩をお読みします。
マーガレット・フィッシュバック・パワーズというアメリカ人女性の作った詩です。(松代恵美 訳)
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
新生讃美歌570『たとえばわたしが』は野中宏樹さんがこのフットプリンツと出会って作詞作曲された賛美歌ですが、これをさらに十時節子さんが編曲されたものが連盟から出版されているので、今日はそちらの伴奏で賛美させてください。
メロディーラインは変わらないので、ご存知のフレーズが出て来ましたらどうぞご一緒に口ずさんでください。
♪「たとえばわたしが」
1.たとえば私が歩けなくなっても 私を背負ってともに歩いてくれる
たとえば私が道をはずれても 私とともにいてそこを歩いてくれる
2.たとえば私が涙を流すとき ともに涙流し悲しんでくれる
たとえば私がひとりになっても 私を慰め励ましてくれる
3.イェス様とともに歩きだすときに あなたも気づくだろうもうひとつの足跡
砂の上に続くふたりの足跡は あなたとイェス様の足跡なのです
(くりかえし)
ともに生きる喜びかみしめながら歩いていく
あなたのそばにはいつももうひとつの足跡
もう一度今日の聖書箇所をお読みします。
詩編37:23-24(新共同訳)
主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。
(聖書協会共同訳)
人の歩みは主によって確かなものとされ/その人の道を主は喜ばれる。
彼は倒れても、打ち捨てられることはない。/主がその手を支えてくださる。
人の歩みは主によって定められ、確かにされます。主が備えてくださった道を私たちが主に信頼して歩むことを主は喜ばれる、そう聖書は語ります。そしてその道の途上で例え私たちが失敗したりくじけたりして倒れたとしても、まっさかさまに倒されはしない。切り捨て投げ出されるようなことは決してありません。
主が私の手をとらえ、支えてくださり、失敗を共に悲しみ、痛みを共に痛み、どこまでも共にいてくださるのです。
私の想いや想像をはるかに超えて、神様のご計画は実現されていきます。
ひとり一人それぞれに才能や能力を与えられて、その人にふさわしい道がそれぞれに用意されている。個々の道をそれぞれ歩むことになります。だからこそ、人と人がつながり、自分以外の誰かとつながった時に、その方の歩みや賜物を通して神様の尊い御業を見せていただき、さらに神様へとつながることができる、そのように思うのです。
マタイによる福音書10:31(新共同訳)
「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
祈 り
賛美歌 新生645 すべてをくださる恵みの神
献 金
頌 栄 新生673 救い主み子と
祝 祷
後 奏
2024年10月20日 特別礼拝
投稿日 : 2024年10月20日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー