前 奏
招 詞   コリントの信徒への手紙一14章15節
賛美歌   新生 21 栄光と賛美を
開会の祈り
賛美歌   新生103 望みも消えゆくまでに
主の祈り
賛美歌   新生134 生命のみことば たえにくすし
聖 書   エレミヤ書30章18~22節
                      (新共同訳聖書 旧約P1233)
宣 教   「再起動」     宣教者:富田愛世牧師
【慰めの書】
 エレミヤ書30章から33章は「慰めの書」と呼ばれ、まとまりのある箇所だと言われています。それを理解するために、エレミヤ書の全体像を見てみたいと思います。
 現代聖書注解という本の分類によると第一部が1章から10章までで「破滅に関する神よりの使者」というタイトルがつけられ、一つのまとまりとなっています。タイトル通りエレミヤが活動していた南ユダ王国が、神の裁きによって滅ぼされてしまうという事を告げるために、神からの使者として「預言者」が遣わされることが語られています。
 第二部は11章から20章までで「葛藤の中にある神の預言者」というタイトルが付けられています。ここにはエレミヤという一人の人間と、神の預言者として、語らなければならない言葉の間にある葛藤が読み取れます。
 第三部は21章から29章までで「国家とその制度の運命」というタイトルが付けられています。ここには南ユダ王国という国の体制というか、その時々に立てられた王による政治に対する神の裁きが語られます。基本的にはエレミヤが預言者として立てられた当時のヨシヤ王は、尊敬すべき、素晴らしい王でしたが、その後に続く王たちはみんな「主の目に悪とされること」を行っていたわけです。
 そして、第四部が今日からの箇所となる30章から33章までで「回復の約束」というタイトルが付けられています。ここには、今までの裁きの言葉ではなく、裁きの後に来る回復の言葉が書かれています。
 第五部は34章から45章までで「ユダの最後」というタイトルが付けられています。新共同訳聖書には34章の前に「ゼデキヤ王への警告」という小見出しが付けられています。南ユダ王国、最後の王であるゼデキヤに対する言葉が語られ、39章には「エルサレムの陥落」という小見出しが付けられ、エルサレムの城壁が破壊されてしまう様子が語られています。
 最後の第六部は46章から52章までで「諸国民の試練」というタイトルが付けられています。エジプト、ペリシテ、モアブ、バビロン、その他の諸国民に対する神の裁きが語られ、エルサレムの陥落とバビロンへと捕囚として連行されるという事が語られています。
【イスラエルとユダの現状】
 ざっと全体像を語りましたが、もう少し最初から見ていきたいと思います。エレミヤは第一部の1章で、自分が神によって預言者として立てられたいきさつについて、簡単に述べています。
 そして、2章から6章にかけては、具体的にイスラエルとユダに対する裁きの言葉が語られるわけです。ただし、この時点では、すでにイスラエルはアッシリアによって滅ぼされているのです。
 もうなくなってしまっている国について、なぜ語るのでしょうか。それはイスラエルの罪に言及することによって、ユダの罪の大きさが比較され、イスラエルよりも、その罪は重いのだと忠告されているという事なのです。
 7章から10章では、偽りの宗教に対する裁きが語られています。7章7節を見るとエルサレム神殿において「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」と書かれています。ここには新約聖書でイエスが語ったように、神殿信仰に対する皮肉を込めた言葉が預言者の口を通して語られているのです。
 天地万物の創り主なる唯一の神への信仰を捨て、御利益的なバアルの神、目に見える形の偶像に、心変わりしてしまう民の愚かさが語られています。このような聖書の箇所を、私たちは客観的に読んでしまう時があります。
 しかし、自分事として読む時、自分たちの中にも、このような愚かさが潜んでいることに気付かされるのではないでしょうか。
 自分にとって都合の良いことが起こった時、「神さまに守られていることを実感します」などと言い、反対に悲しいことや嫌なこと、つまり、自分に都合の良くないことが起こると「神さまは何をしているのだろう」と不安に思うということは「御利益を望んでいる」という事に他ならないので注意しなければなりません。
 預言者は偶像と真の神、どちらに従うのですかと、決断を迫っているのです。
【預言者の悩み】
 第二部の11章から20章には預言者の葛藤が語られています。
 イスラエルの民は「契約の民」と呼ばれることが多いのですが、それは神との間に契約を結んでいるからなのです。その契約とは「シナイ契約」と呼ばれています。モーセの十戒で有名な契約で、その第一の戒めは「天地万物の創造主である神は唯一の神である」というものです。そして、第二の戒めは「偶像崇拝の禁止」です。
 この神との契約をイスラエルの民は破ってしまったというのです。そして、その罪に対する裁きとして、ユダは滅びてしまうというのです。
 エレミヤはイスラエル人であり、自分の同胞であるイスラエルの民を愛していました。そのようなイスラエルが滅ぼされるという事は、エレミヤにとって本意ではありません。出来れば、裁かないで欲しい、裁くとしても、もう少し手加減して、滅ぼすことまではしないで欲しいと願っていたのです。
 しかし、神の言葉は絶対であって、背くことはできません。エレミヤは語りたくない言葉を、語らなければならなかったのです。
 たぶん、この当時、王の周りにはたくさんの助言者がいたと思われます。それぞれの得意分野において、王に助言する人がいたのです。その中には預言者と呼ばれる人たちもいたはずです。そのような職業的な預言者は、ユダが滅びるなどというような言葉を語るはずがないのです。エレミヤは語りたくない言葉を語らなければならないという葛藤の中にいたのです。
 そして、第三部の21章から29章では、国の指導者たちへ向けた言葉が語られます。
 エレミヤにとって、預言者となってから最初に出会ったヨシヤ王は尊敬すべき、素晴らしい王でした。しかし、その子シャルムに対する言葉は22章にあるように、王位から追放されるというものでした。このシャルムというのは、エジプトへ捕囚となったヨアハズの事です。そして、それに続く王たちも「主の目に悪とされること」を行い続けているのです。
【再起動】
 エレミヤが活動していた時代、ユダの王たちは神に背き、悔い改めようとしませんでした。しかし、第四部の30章から33章で、エレミヤに臨んだ神の言葉は将来に対するものでした。
 それは、神は必ず回復させてくださるというものでした。今日の聖書箇所である30章18節には、ヤコブの天幕は繁栄を回復し、都は廃墟の丘の上に建てられるというのです。その言葉通り、バビロン捕囚から約70年後、イスラエルの民は捕囚から帰還するのです。しかし、その事実は事実として、受け止めたうえで、この預言の言葉にはもっと深い意味があるのです。
 つまり、目に見えるものには限界があり、それは必ず滅びてしまうという事です。現にエルサレム神殿は再建されますが、約500年後にローマ帝国によって完全に破壊されてしまうのです。
 その事実の前に、神の言葉はどうなるのでしょうか。再建されると言ったけれど、また、破壊されてしまったという事は、神の言葉は成就しなかったのでしょうか。そういう事ではありません。この神の言葉は見えるものに対する言葉ではなく、信仰の事柄なのです。
 天幕の回復や都の再建、それはイスラエルの信仰が回復され、天地万物の創り主なる神を礼拝するという事なのです。19節にある「わたしが彼らに栄光を与え」ということは、神との正しい関係へと、その関係性が修復されるという事なのです。
 さらに21節で語られる「ひとりの指導者」とは究極的にはイエス・キリストを指しているのです。このイエス・キリストによって私たちも神との正しい関係に入れられるのです。

祈 り
賛美歌   新生567 み神こそわが望み
主の晩餐  
献 金   
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏