前 奏
招 詞   ヨハネの黙示録22章16節
賛美歌   新生 21 栄光と賛美を
開会の祈り
賛美歌   新生363 キリスト 教会の主よ
主の祈り
賛美歌   新生552 わたしが悩むときも
聖 書   エレミヤ書33章10~16節
                          (新共同訳聖書 旧約P1241)
宣 教   「正義の若枝」    宣教者:富田愛世牧師
【若者の声】
 今日でエレミヤ書が最後になるので、もう一度、初めから少し振り返ってみたいと思います。
 エレミヤは1章で預言者としての召命を受けています。しかし、その時エレミヤは素直に神からの語りかけを受け入れているわけではありません。「自分はまだ、若いから何を語ればよいのか分からない」と言って拒んでいるのです。
 このエレミヤの答えは、もっともだと思います。私たちの常識では、人前に立って何かを語るのは、経験豊かな大人でなければならないのです。何故なら、私たちは自分が経験したことが一番正しいと思い込んでいるからなのです。
 もちろん、経験するという事はとても大切なことで、多くの場合、役に立つことでもあるのです。しかし、神の選びは、人の経験など関係ないようなのです。
 神は人生経験など全く関係なく、若いエレミヤを選びました。そして、預言者として立て、神の言葉を語らせようとされたのです。しかし、エレミヤが神によって選ばれ、預言者として立てられたことを、エレミヤ以外の人々、ユダの民には理解できたでしょうか。神の言葉が空から響き渡って、ユダに住む民衆の耳に届いたとするなら、人々はそのことを認めたかもしれません。
 しかし、エレミヤが神に選ばれ、預言者として立てられたという事実を知るのは、エレミヤ以外にはいませんでした。そんなエレミヤの言葉を、さらに年若い、青二才のようなエレミヤの言葉をユダの民は受け入れたでしょうか。
 残念ながら、ユダの人々はエレミヤの言葉を、神の言葉として受け入れることはありませんでした。ある程度、年齢を重ね、経験を重ね、さらに人々に知られた存在だったとするならば、または、だれか信頼できる人の後ろ盾があったとするならば、その言葉を受け入れることが出来たかもしれません。しかし、エレミヤは若く、何の経験もなく、その後ろ盾となる、影響力のある人物もいませんでした。
【立ち止まり、見渡せ】
 次に6章を読みました。そこでは南ユダの中心地、都であるエルサレムの様子が描かれていました。エルサレムに住む民は利己主義で、自分のことしか考えていませんでした。あらゆることに対して、自分にとって都合が良いのか、悪いのか、それが判断基準だったのです。
 6章14節に「平和がないのに『平和、平和』と言う」という象徴的な言葉がありました。とても印象的な言葉なので、覚えている方も多いのではないでしょうか。
 確かに表面的には何の問題もなく、平穏な日々を送っていたのかもしれません。しかし、エルサレムの町の中には貧しい者、虐げられている者、差別されている外国人がいたのです。
 イスラエルの民も、かつてはエジプトで奴隷の生活をおくっていました。貧しく、虐げられ、外国人という事で差別を受けていたのです。そのような苦しみ、痛みの中で、神に向かって助けを求め、叫んでいたのです。
 その叫びに神が答えてくださった。そのような経験をすっかり忘れてしまったのです。初めにエレミヤが預言者として神に選ばれた時、年若く、経験が乏しいから、人々に認められなかったのではないかと語りました。世間の常識では、経験豊かな者こそが、預言者にふさわしいと思われていたのではないかと語りました。
 現代社会において、預言者は存在しませんが、人の前に立って、何かを語る者は、経験豊かな者がふさわしいと思われています。しかし、イスラエルの民が、過去の経験を忘れてしまったように、経験という事は努力して覚え続けなければならないし、ある時には更新していかなければならないのです。
 ユダの民は過去の経験をすっかり忘れ、今は差別する側に回ってしまったのです。恥ずかしい行為を、恥ずかしいと思わないくらい鈍感になってしまったのです。
 そのようなユダの民に対して、神は分かれ道に立って、見渡せと語るのです。どの道が幸いに至る道なのか。正義の道はどこにあるのか、しっかりと立ち止まって、落ち着いて見渡しなさいと語るのです。そして、その道は神が示してくださるのです。
【裁きの言葉】
 その後も、エレミヤの語る預言の言葉が続いていきますが、その中心となるのは裁きの言葉でした。裁きの言葉が語られる時、その言葉を聞く側の気持ちはどのようなものなのでしょうか。
 様々な思いがあると思いますが、大きく分けると二つに分けられるのではないかと思うのです。それは、落ち込む人と反発する人ではないでしょうか。
 エレミヤの言葉を聞いたエルサレムの人々はどうだったのでしょうか。多くの人は落ち込んだのではないかと思います。しかし、ユダの王や高官たちは反発しました。そして、職業預言者と呼ばれる、偽の預言者たちは「なぜ、そんなでたらめを語るのか」とエレミヤを攻め立てました。
 前にもお話しましたが、王の周りには、様々は専門的な助言者がいました。その中に職業預言者と呼ばれる人々もいたのです。国の方向性を決めたり、重要な判断をしたりする時に預言者の言葉に頼っていたのです。今考えるとナンセンスな感じを受けるかもしれませんが、現代においても怪しげな霊能者が助言者として存在して、政治を動かしているという噂は絶えませんから、もしかすると昔も今も変わらないのかもしれません。
 また、戦争などの危機的状況下では、嘘でも自分たちが有利であるという言葉を聞きたいと願うのです。ユダの王や高官たちも、そのようにユダが勝利するという言葉を求め、偽預言者たちに勝利の言葉を語らせたのです。そして、国のリーダーたちによって扇動された、愚かな民は思考停止状態に陥って、リーダーたちに従ってしまったのです。
 それでは、エレミヤのように裁きの言葉を語る者の心境はどのようなものだったでしょうか。人はみんな他人から良く見られたいと思います。ですから語る者は相手が気持ちよくなれるような言葉を語ろうとするのです。
 しかし、エレミヤは預言者として、神の言葉を語らなければならないという使命を持っていました。そのために語りたくない言葉を語らなければならなかったのです。エレミヤの心は傷ついていたに違いありません。胸が張り裂けそうな痛みを覚えながら、神の言葉を語っていたのです。
【正義の若枝】
 しかし、神の計画は「裁き」で終わるものではありませんでした。ただし、人はその犯した罪に対して、裁きを受けなければなりません。イスラエルは神に背くという罪を犯しました。その罪に対する裁きは受けなければならないのです。
 ただ、私たちは「裁き」という事の本当の意味を勘違いしているかもしれません。裁かれるという事は、自分が罪に定められて、ダメだという烙印を押されてしまい、あとは破滅しか残っていないように思っているのではないでしょうか。
 しかし、裁きとは、そのような否定的なことではありません。私たちに罪を自覚させ、悔い改めるチャンスを与えるものなのです。自分の犯した罪をずっと引きずり、良心の呵責に苛まれるのは非常に辛いことなのです。そこから解放されるためには、裁かれることも必要なのです。
 そして、神の計画は裁きによって一度清算され、次の段階へと進むのです。それは新しい契約によって、人類との新しい関係に入ることなのです。古い契約とは十戒に代表される律法であり、人々の頑なな心によって、恵みの戒めとして与えられたにも関わらず「ねばならない」という人を縛り付ける戒律になってしまったものです。
 神は新しい契約を結ぶため、次のように語ります。エレミヤ書33章14~15節をもう一度お読みします。「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。」
 神は新しい契約として「正義の若枝を生え出でさせる」と言われるのです。この正義の若枝こそがイエス・キリストなのです。
 イエス誕生の時、ヨセフはマリアの妊娠を知って戸惑いました。その時、天使がヨセフの夢に現れ「その名はインマヌエル、神は我々とともにおられる」と語りました。この天使の言葉によってヨセフは勇気づけられ、マリアを妻に迎えることが出来たのです。
 イエス誕生の出来事は、神が私たちと共にいてくださるという事を意味しているのです。神が共にいてくださるという言葉は、イスラエルの族長たち、また、預言者たちを勇気づけ、前に進むことが出来るように背中を押してくださる言葉なのです。そして、キリストを信じる者たちにとって2000年の時を超えて、今も生きた言葉として、私たちの背中を押し続けているのです。

祈 り
賛美歌   新生199 暗き闇に星光り
献 金   
頌 栄   新生673 救い主み子と
祝 祷  
後 奏