前 奏
招 詞 イザヤ書11章1~2節
賛美歌 新生 8 主の呼びかけに
開会の祈り
賛美歌 新生180 イエスがこころに
主の祈り
賛美歌 新生194 まぶねの傍に
聖 書 マタイによる福音書2章1~8節
(新共同訳聖書 新約P2)
宣 教 「疑心暗鬼」 宣教者:富田愛世牧師
【アドベント】
アドベントの第三週目を迎えました。クリスマスがもう目の前という時期ですから、世間一般では華やいだ雰囲気に包まれています。また、キリスト教会でもアドベントの三週目というのは特別な意味を持っているようです。
ところで皆さんは、アドベントの意味をご存じでしょうか。「もちろん知っています」という方が多いと思いますが、年に一度の事なので、確認しておきたいと思います。アドベントという言葉はラテン語の「到来」という意味で、キリストがこの世に来られるという意味で用いられています。つまり、キリストの到来、誕生、クリスマスを待ち望む期間として大切にされてきました。
そして、教会の礼拝では、この期間にアドベントリースを飾ります。アドベントクランツとかアドベントクラウンなどとも呼ばれています。これはキリストによる「永遠の命」を表わすために常緑樹で作られます。そこには4本のローソクが立てられ、毎週一本ずつ火を灯していくのが習慣となっています。
このローソクもカトリック教会やルーテル教会では典礼色としての紫のローソクが用いられますが、イギリスでは赤が用いられるそうです。そして、先ほどアドベントの第三週に特別な意味があると言いましたが、この4本のローソクのうち三週目に灯されるローソクは色が違っていて、喜びを表す赤や緑が用いられるようです。
4本のアドベントキャンドルにも、それぞれ意味があり、一週目は「預言のキャンドル」として希望を意味しています。そして、二週目は「天使のキャンドル」で平和、三週目は「羊飼いのキャンドル」で喜び、四週目は「ベツレヘムのキャンドル」で愛を表わしています。また、一般的なアドベントクランツには4本のローソクとなっていますが、5本立てることもあります。その時の5本目は「キリストのキャンドル」と呼ばれています。
クリスマスやアドベントの習慣は、それぞれの地域的な特徴が加わっているので、どれが正解とか間違いという事ではなく、それぞれの方法でキリストの到来を待ち望み、喜びを表現することが出来れば良いのではないかと思います。
日本のキリスト教会は歴史が浅いので、それぞれの教派や教会の背景にある、欧米の教会の影響が強く残っているということだと思います。
【疑心暗鬼】
今日は「喜び」をテーマとしたアドベントの第三週目なのに、メッセージのタイトルが「疑心暗鬼」というのは、あまり相応しくないと思われるでしょう。私もそう思います。クリスマスの時期に「疑心暗鬼」等という言葉を掲示板に出したくないと思いましたが、反対にインパクトがあるかなとも思い、このようにしました。
しかし、聖書を読むと、イエス誕生にまつわる出来事として、避けて通れない、暗い話題がいくつかあるわけです。その中の一つがヘロデ王の存在なのです。今日は読んでいませんが、マタイによる福音書2章16節の前には「ヘロデ、子供を皆殺しにする」という小見出しが付けられています。ユダヤ人の王として生まれたイエスの誕生に対して、ヘロデ王の心はまさに疑心暗鬼だったのです。
この疑心暗鬼という言葉ですが、元々は中国の「列子」という書物に納められていた言葉だという事です。意味としては「一度疑い始めると、ほかのこともすべて疑わしく思えてくるという心理状態」ということです。漢字の意味は、「疑心」というのが仏教用語で真理を疑うという意味があり、「暗鬼」というのは、暗闇の中に鬼が見えるという意味の漢字で、この二つを組み合わせた四字熟語です。
「列子」という書物は、列子と呼ばれる人が書いたとされていますが、真偽のほどはよく分からないそうです。そして、その中に書かれている例話として「ある男性が木を切るときに使っていた鉞(マサカリ)をなくし、それを隣りの家の息子が盗んだと疑いはじめます。一度疑ってしまうと、その息子の言動がすべて疑わしく感じるようになったということです。その後、鉞は発見され、隣りの家の息子を怪しむ気持ちはなくなりました。」という事です。この話から「疑心、暗鬼を生ず」という言葉が生まれ、「疑心暗鬼」という言葉になったのです。
それでは、なぜ、ヘロデ王は疑心暗鬼になったのでしょうか。それは、東方の占星術学者たちの言葉が引き金となっているのです。彼らはヘロデ王のもとに来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねています。この「ユダヤ人の王」という言葉に危機感を持ったのではないかと考えられているのです。
なぜなら、ヘロデ王はユダヤ人ではなくエドム人だったからです。エドム人というのは、イスラエルの族長物語に出てくるアブラハムの孫でエサウとヤコブという兄弟がいました。その兄のエサウがエドム人の祖先となり、弟のヤコブがユダヤ人の祖先となっているのです。ですから、兄弟として近い関係にありましたが、互いに敵対する関係になってしまったのです。
【ヘロデ王の不安と恐れ】
このヘロデはヘロデ大王と呼ばれ、ローマ帝国によって、ユダヤの王に任命され、紀元前37年から4年まで王位についていました。時の権力者としてユダヤの頂点にいたわけです。しかし、ヘロデ王はイスラエルの中に、今でも根深く残っている「選民意識」という差別の前に恐れと不安を抱いていたのです。そして、その恐れと不安は人種差別だけではありませんでした。それは、権力を握った者たちによくみられるものです。
この当時のユダヤは高度経済成長の只中にあったと考えられています。経済的な繁栄とパックスロマーナと呼ばれる、ローマ帝国による平和と安定を人々は謳歌していたようなのです。現在、パレスチナ地域にみられる多くの遺跡は、ヘロデ大王時代のものだそうです。
しかし、それらは表面的なことで、水面下では、異邦人支配からの解放を目指す、様々抵抗運動が展開していたようです。ヘロデ王はそのような抵抗運動の弾圧に躍起になっていたという記録も残っているようです。ユダヤの頂点に君臨し、支配者として、その座についていましたが、心の中には不安と恐れが渦巻いていたという事なのです。そして、その不安や恐れを隠すために暴力的な行動をとっていたのです。
人は、不安や恐れを持つと、他の人に知られないように隠します。そして、その隠し方には個人差があるようなのですが、ある人たちは対外的な暴力で、不安や恐れを隠そうとするのです。
ヘロデ王が不安と恐れを抱えていたように、私たちにも不安や恐れがあると思います。この不安や恐れはどこから来るのでしょうか。デイリーブレッドという日々の黙想プログラムがあります。そこに、恐れについて、このような記事がありました。
「恐れは許可なく心に忍び込み、無力感を与え、心の平和を奪います。私は何を恐れているのでしょう。家族の安全や健康。職を失ったり、人間関係が壊れたらどうなるのでしょう。恐れは、私を内向きにし、信頼することの難しさをあぶり出します。
このように書かれていました。恐れは「許可なく心に忍び込む」というのです。
【恐れからの解放】
また、不安や恐れという事について、調べてみると「葉っぱのフレディ」という本の中に「まだ経験したことのないことは怖い」という言葉がありました。多くの人は経験のあることや自信のあることに対しては、不安や恐れを感じることは少ないと思います。
しかし、経験のないことや自信のないことに対しては、不安や恐れを抱くのです。なぜなのでしょうか。失敗を恐れるという事もありますが、もしかすると、それは委ねるべきところに委ねていないからかも知れません。
例えば、お金を送る時、現金書留で送れば何かあった時郵便局が補償してくれますから、心配しなくても構わないわけです。しかし、現金書留の480円を惜しんで、普通郵便で送ったならばどうでしょう。相手のところに届くまで不安になるのではないでしょうか。これは、任せるべきところに任せていないから起こる不安です。郵便局が責任を持つべきところを、郵便局に任せていないから自分で心配するのです。
今日の聖書は、東方の占星術学者たちが、ベツレヘムへと向かう場面が中心なのかもしれません。しかし、同じ箇所には恐れと不安におびえるヘロデ王も登場しているのです。そして、この虚勢を張っているヘロデ王のためにも救い主はおられるのです。
ヘロデ王のしなければならないこと何なのでしょうか。それは、インマヌエル、神が共にいるということを実現された救い主、イエスを心に迎え入れ、自分の人生を神に委ねることなのではないでしょうか。自分を神に委ねるという事は、何もしなくていいということではなく、神の計画に巻き込まれるという事なのです。
「わたしも行って拝もう」というヘロデ王の言葉には裏があり、ユダヤ人の王として生まれた赤ん坊を亡き者にしようという意図が込められていました。それは、王位を含めて、神に委ねるのではなく、自分で維持するための企てです。
先ほどのデイリーブレッドの続きにこう書かれていました。
「心配や恐怖に襲われたなら、詩篇34篇のダビデの祈りを読むとよいでしょう。ダビデは、『私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった』と語ります (詩34:4)。どうやって救い出されたのでしょう。主を『仰ぎ見る』(5節)、つまり、神に焦点を合わせるなら、恐れは次第に薄らぎます。そして、神が何もかも支配されていると信頼できるのです。一方、ダビデは別の恐れについても述べています。それは全身が凍り付いてしまうような恐れではなく、私たちを守り、助け出してくださる神に対する畏敬の念です(7節)。私たちは、そのお方のもとに身を避けることができます。何と幸いなことでしょう(8節)。
神の品性と深い愛を思い出すなら、心に平安を得ることができます。ダビデは、『主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ』と語ります(9節)。主の素晴らしさに対する畏怖の念は、本当に恐れるべきものを教えてくれます。主を恐れて恐れから救い出されるとは、何とも素晴らしい発見です。」
祈 り
賛美歌 新生192 みたりの博士は
献 金
頌 栄 新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷
後 奏
2024年12月15日 主日礼拝
投稿日 : 2024年12月15日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー