前 奏
招 詞   イザヤ書42章1節
賛美歌   新生  3 あがめまつれ うるわしき主
開会の祈り
賛美歌   新生 86 輝く日を仰ぐとき
主の祈り
賛美歌   新生 71 年の始めは
聖 書   マタイによる福音書3章13~17節
                      (新共同訳聖書 新約P4)
宣 教   「正しく生きる」     宣教者:富田愛世牧師
【そのとき】
 今年も元旦礼拝から始まり、最初の主の日を迎えることが出来感謝いたします。今日のタイトルは「正しく生きる」としました。新年の最初に、このようなタイトルを付けると、これが一つの目標のようなイメージを抱き、今年こそは正しく生きなければならない諭されているように感じるかもしれません。しかし、この「正しさ」というものが曲者で、私たちは聖書の語る「正しさ」を誤解しないようにしなければなりません。
 昨年の12月からマタイによる福音書を読み始め、クリスマスの出来事の次に来る、出来事として、今日の箇所が選ばれています。何度も言うように、クリスマスの出来事はマタイとルカの福音書しか記録していません。ところが、4つの福音書が共通して語る最初の記録は、バプテスマのヨハネの働きなのです。
 4つの福音書が共通して語っているということから、バプテスマのヨハネの働きが、イエスの生涯にとって、どれほど重要なものだったのかという事が現わされているのです。
 13節をもう一度読んでみます。「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼からバプテスマを受けるためである」と書かれています。「そのとき」とは、どのような時だったのでしょうか。
 少し前の7~8節を見ると「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、バプテスマを受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ』」と書かれています。
 つまり、ヨハネのもとにファリサイ派やサドカイ派の人々がバプテスマを受けに来た時のことなのです。自分のところに、バプテスマを受けるために来たわけですから、歓迎すれば良いのに、ヨハネは「蝮の子」と突き放しているのです。
 当時の常識からすれば、ファリサイ派やサドカイ派の人々というのは、宗教的にも道徳的にも、人々の模範となるような、正しい人々だったはずです。多くの人から尊敬され、頼りにもされていたのではないかと思うのです。
【正しいこと】
 ファリサイ派の人々もサドカイ派の人々も、決して罪深い人々ではありませんでした。ただ、サドカイ派の人々については、ローマ帝国の支配下にあったユダヤにおける最高決議権を持った宗教的・政治的自治組織としてサンヘドリンと言うものがありました。その、サンヘドリンの議員の多くはサドカイ派だったと考えられています。
 そのような観点から見ると、サドカイ派の人々は少しずるい人たちだったのかなと、感じるところもあります。ただ、それは私の個人的な見解かも知れません。何故なら「議員」という言葉に対して、現代の衆議院や参議院といった国会議員をはじめ、地方議会の議員に至るまで、様々な問題を起こし、ニュースに取り上げられています。
 もちろん、問題を起こすのは一部の方かも知れませんが、同じような問題を起こす人が後を絶たないのも事実なので、私の中では信頼感がかなり低くなっています。
 私の思いは、脇に置いておいて、当時の人々の思いとしては、ファリサイ派の人々もサドカイ派の人々も、律法を厳守し、伝統に従って、神殿中心のユダヤ教の信仰を守っていたのです。つまり、常識的には非の打ちどころのない人々でした。
 しかし、ヨハネは彼らを非難しました。今日の箇所には出てきませんが、イエスの生涯を見ていくならば、この後イエスも彼らを非難するようになるのです。何故なのでしょうか。
 それは「正しさ」に対する見解の違いがあるからなのです。そして、この見解の違いは現代においても同じことが言えるのではないかと思うのです。
 ファリサイ派やサドカイ派の人々は、宗教的伝統や律法を基準とした正しさを主張していました。そして、この正しさというのは当時の道徳的正しさにも共通するものだったのです。そのように考えるなら、ファリサイ派やサドカイ派の主張する「正しさ」とは当時の感覚からするならば、最高の正しさであり、それ以外のものは考えられないくらいのものでした。
 しかし、イエスやバプテスマのヨハネは、神の正しさを主張したのです。それでは、神の正しさとは、どのようなものなのでしょうか。ひと言で答えの出るようなものではありませんが、そのヒントの一つが15節にあるイエスの言葉に隠されているように感じます。
【イエスのバプテスマ】
 13節にあるように、イエスはバプテスマを受けるためにヨハネの所に来ました。ところがヨハネはそれを思いとどまらせようとしたと書かれています。なぜならば、ヨハネは14節に書かれているように「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と語ります。
 また、11節を見ると「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。」と語っているのです。
 バプテスマのヨハネは、イエスがどのような方なのかを知っていました。自分は悔い改めのバプテスマを授けているが、イエスは悔い改めた者に対して、救いを与える方だということを知っていたのです。ですから、イエスは罪を悔い改める必要はなかったはずです。バプテスマのヨハネも、本当ならば、イエスによる救いを受けたいと願っていたのです。
 しかし、イエスは「正しいことをするのは我々にふさわしい」と語り、ヨハネを説得するのです。私たちは、ここでバプテスマを受けることが「正しいこと」と解釈しています。もちろん、それは間違いではないかもしれません。しかし、単純に、バプテスマを受けることが正しいという感覚は、現代のクリスチャンの感覚なのです。
 同じように、当時のユダヤ教徒にとっては「割礼」を受けることが正しいことだったはずです。ですから、現代のクリスチャンの感覚で考えるなら、ここで「正しいことをするのは我々にふさわしい」というのはバプテスマを受けることではなく、割礼を受けることだったのではないでしょうか。
 聖書を読む時に、忘れてしまうけれど、大切な事実として、バプテスマのヨハネもイエスもユダヤ教徒だったのです。ただ、伝統を守る正統な、保守的なユダヤ教徒ではありませんでした。律法や預言書の本質を見抜いていて、当時としては革新的なユダヤ教徒だったのです。
 ですから「正しいこと」とは「割礼」を受けることだったはずです。当然、二人とも子どもの時に割礼を受けていたはずですから、もう一度受けることはできませんでした。その代りに「バプテスマ」だったのでしょうか。
【神の答え】
 イエスの「正しいことをするのは我々にふさわしい」という言葉に説得されて、バプテスマのヨハネはイエスにバプテスマを授けました。そして、イエスが水の中から上がられると天から神の霊が鳩のように降ってきたとあります。
 そして、同時に天からの声が聞こえたというのです。この声が「正しさ」に対する答えとなるのではないでしょうか。
 16節の後半から見ると「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。
 ここにも「そのとき」という言葉が2回、続けて出てきますが、それはバプテスマを受けた後、イエスが水から上がった時の出来事になります。
 神の霊、聖霊が降ったということを、どのように説明すれば良いのか、私には分かりません。以前も、聖霊は説明できるものではなく、感じるものだと言いましたが、ここでも同じことで、イエスは何なのか説明は出来ないけれど、不思議な力が天から降って来るのを感じたという事です。
 そして、その力と同時に愛する子であり、心に適う者だという声を聞いたのです。それが「正しさ」という事なのです。ファリサイ派やサドカイ派の人々は、律法を全うし、善い行いをすることが「正しさ」だと思っていました。しかし、イエスは「正しさ」を完成させるためにバプテスマを受けたという事なのです。
 それは、神が「善し」とされることを、神の霊によって導かれるままに、行うというより、気がついたら、行っていたというように促されていくことなのです。
 私たちは自分の行いに対して、自信を持てないことがほとんどかも知れません。しかし、神は私たちを「御自分に似せて」造られたのです。そして、神の霊はいつも私たちに注がれ続けているのです。善い行いをしなければならないと気負っているうちは、聖霊の働きに気付けません。しかし、気負うことをやめ、神の導きに委ねるなら、やるべきことへと促されていくのではないでしょうか。

祈 り
賛美歌   新生207 緑も深き
主の晩餐  
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏