前 奏
招 詞   イザヤ書9章1節
賛美歌   新生  3 あがめまつれ うるわしき主
開会の祈り
賛美歌   新生 59 父の神よ 汝がまこと
主の祈り
賛美歌   新生656 きみの賜物と
聖 書   マタイによる福音書4章12~22節
                         (新共同訳聖書 新約P5)
宣 教   「ガリラヤの出会い」     宣教者:富田愛世牧師
【イエスの宣教】
 イエスが活動していた場所はガリラヤと呼ばれる地域でした。そして、その始まりは12節に書かれているように「ヨハネが捕らえられた」時でした。もう一度、12節を読むと「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」とあります。「退かれた」という事ですから、どこか他の場所から、ガリラヤに来たように読めますが、そういうことではなさそうなのです。
 前回の3章でイエスはヨハネからバプテスマを受けました。その後、4章1節を見ると「荒れ野」に行かれ悪魔から誘惑を受けたのです。この荒れ野がどこの事なのかは、はっきりしません。少なくともガリラヤではないと思うのです。何故なら、ガリラヤ地方は比較的緑豊かな地域だったからです。
 どこから、ガリラヤへ退かれたのかは分かりませんが、一つの時代が終わり、もう一つの時代の到来を意味しているのです。それは、バプテスマのヨハネの時代が終わりを告げ、イエスの時代がやってきたという事なのです。
 このイエスの時代の到来を告げるために用いられる言葉が「ガリラヤに退かれた」という一見、否定的な、後ろ向きな言葉が用いられているところが重要なのではないかと思うのです。
 私たちの感情や常識からするならば、何かを始めるという事は、夢や期待をもって始めると思います。しかし、イエスの働きとは、もちろん神の国について語り、差別され、虐げられている者たちに希望を与えることですが、それだけではなく、十字架への道の始まりでもあるのです。次の5章にあるように「心の貧しい人は幸い」であり「悲しむ人は幸い」という世界観なのです。
 表面的に喜ばしいだけではなく、その裏に隠れている様々な痛みや苦しみを魔法のように取り去って、喜びましょうということではなく、痛みや苦しみを共にして、一緒に嘆き、涙した先にある喜びを共にするため「退く」という言葉が用いられているのではないでしょうか。

【カファルナウム】
 次に13節を見ると「そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」とあります。イエスの本格的な活動の拠点となる町は、御自分が生まれ育ったナザレではなく、ガリラヤの中心的な町の一つであるカファルナウムだったのです。
 そして、それは預言者の語った預言が完成するためでもあったのです。15節と16節の言葉はイザヤ書8章23節から9章1節の言葉が部分的に用いられています。イザヤ書を見ると8章23節には「今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。先に ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが 後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」とあり、9章1節には「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」と書かれています。
 9章1節は、ほぼそのまま引用されていますが8章23節は、抜粋して用いているようです。マタイによる福音書はユダヤ人に向けて書かれたものなので、このように預言がイエスによって完成したと証明することが重要だったのです。
 そして17節には、イエスが語り始めた最初の言葉が記録されています。それはバプテスマのヨハネと同じ「悔い改めよ。天の国は近づいた。」というものでした。ヨハネが捕らえられ、ヨハネの時代が終わりを告げ、イエスの時代が始まったにも関わらず、同じ言葉が語られるのは、おかしいような気がするかもしれません。
 しかし、同じ言葉であったとしても、ヨハネが語る意味合いと、イエスが語る意味合いとでは大きく違っていたのです。ヨハネが水のバプテスマ、つまり、悔い改めのバプテスマを授けていたのに対して、イエスのバプテスマは「聖霊と火」によるのだとヨハネが語りました。
 ヨハネはメシアのための道を備えるものだったわけですから、「天の国」が近づきつつあるということを語っていたのです。そして、それがイエスによって実現すると証ししていたのです。つまり、イエスの語る「天の国」は近づきつつあるものではなく、今ここに実現したという事なのです。イエスがおられるという事は、そこに「天の国」が到来したという事なのです。

【湖畔での出会い】
 次に18節からは「四人の漁師を弟子にする」という小見出しが付けられた、新しい段落になります。イエスの活動が始まり、一人湖畔を歩いていた時、二人の漁師が目に入り、声をかけるのです。そして、「人間をとる漁師にしよう」と声をかけ、この二人をスカウトするのです。
 私たちは何度もここを読んでいるので、もう違和感を持たなくなっているかも知れませんが、普通に考えれば、イエスの行動は非常識というか、不思議そのものだと思うのです。ここで最初に注目すべき点は、弟子となるべき2人は、クリスチャンでも何でもないのです。
 もちろん、当時はまだキリスト教というものがありませんから、クリスチャンがいるはずありません。ですからユダヤ教という土台の上で考えて良いと思うのですが、イエスが弟子にしようとしている最初の二人、ペトロとアンデレは、熱心なユダヤ教徒だったとは考えにくいと思うのです。ただの漁師でした。
 ある程度の律法は知っていたでしょうが、律法を守っていたかどうかは定かではありません。なぜなら、彼らは裕福な漁師ではなかったと思われるからです。イエスに従う時、彼らは「網を捨てて」従いました。しかし、21節以降に出てくるゼベダイの子ヤコブとヨハネは「舟と父親を」残して従っているのです。
 つまり、ペトロとアンデレは舟を持っていない、雇われて漁をする漁師だったのです。親方や船主ではない、貧しい漁師だったのです。ですから、その日の水揚げが全てで、毎日安定した収入があったわけではありません。もしかすると、何日も水揚げがなく、安息日にも隠れて漁をしていた可能性があるのです。
 そんな男たちをイエスは弟子にしようと招いているのです。現代の私たちの教会は、こんな冒険はまず、しないと思うのです。私たちは「イエスに倣う者になりたい」と言いながら、聖書に記録されているイエスの行いを、過去の、特別な、例外的なことだと勝手に解釈しているのではないでしょうか。
 しかし、ガリラヤで出会うとは、そういう事なのです。もしかすると、教会の伝道が上手くいかない理由は、ここにあるのかもしれません。クリスチャンではない人のアイデアを受け入れ、そんな人の力を借りなければならないのかも知れません。

【人をとる漁師】
 次に注目すべきことは、イエスの言葉なのです。イエスはペトロとアンデレに向かって「弟子にしよう」とか「伝道しよう」等とは語っていません。「人間をとる漁師にしよう」と言って誘っているのです。
 なぜなのでしょうか。それは漁師のペトロとアンデレにとって、理解しやすい言葉だったからなのではないでしょうか。弟子という言葉を知らなかったとは思いませんが、日常的に使われる言葉ではなかっただろうと思うのです。しかし、漁師という言葉は、自分たちの生業であり、その働きの内容もすぐに理解できたはずです。
 「人間をとる」というところには疑問を持ったかもしれません。しかし、その言葉を聞き返したとは記録されていません。それどころか、その言葉に反応して、すぐに網を捨てて従っているのです。イエスの語る言葉とは、このように杓子定規な決められたセリフではなく、その人の持っている、その人に届く言葉なのです。
 これらの出来事の舞台となり、この後、イエスの活動の拠点となる場所がガリラヤという地なのです。なぜ、ここなのでしょうか。それは預言の言葉の中にもあったように「異邦人のガリラヤ」だからなのです。
 歴史的にもガリラヤは、他国からの侵略を何度も経験していました。他国に占領され、その度にユダヤ人が嫌う「異邦人」がそこに住み着くようになりました。そんなことが繰り返されるうちに「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるようになり、さらに、ユダヤの都であるエルサレムから遠く離れていたこともあって、辺境の地と呼ばれるようになったのです。
 呼ばれるだけでなく、そこに住む人々も差別され、さげすまれるようになったのです。イザヤが語る「暗闇の地」そのものだったのです。しかし、神は差別され、虐げられている人を、そのままにはしておきません。闇の中を歩む民が、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝くと宣言されるのです。そして、それは、イエスによって実現するのです。

祈 り
賛美歌   新生464 主が来られて 呼んでおられる
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏