前 奏
招 詞 創世記9章6節
賛美歌 新生 4 来りて歌え
開会の祈り
賛美歌 新生216 栄えの冠を
主の祈り
賛美歌 新生227 カルバリの丘へと
聖 書 マタイによる福音書26章47~56節
(新共同訳聖書 新約P54)
宣 教 「愚かな正義感」 宣教者:富田愛世牧師
【イスカリオテのユダ】
今日の聖書箇所には、イエスが祭司長たちに捕らえられる時のいきさつが記録されています。そのいきさつは非常に有名で、キリスト教について、あまり知らない人でも、ユダの裏切りという言葉は耳にしたことがあるのではないかと思います。
ここに登場する、イエスの弟子のひとり、イスカリオテのユダは、ローマのブルータスに並んで、裏切り者の代名詞と言ってもいいくらいの人物ではないかと思います。
ユダという人物については、改めて説明する必要はないかもしれませんが、意外と知られていないこともあると思いますので、少しだけ見ていきたいと思います。
まずは、その人物像ですが、イスカリオテのユダはイエスの弟子の一人でした。マタイによる福音書では10章に十二人の弟子の選びが記録されていて4節の後半に「イエスを裏切ったイスカリオテのユダ」という名前が出てきます。マルコによる福音書3章19節とルカによる福音書6章16節にも名前が出て来て「イエスを裏切った」「裏切り者」という説明が書かれています。
そして、イスカリオテのユダという表記については、ケリオテ出身のユダがなまっていると考えられていますが、確かなことではありません。このケリオテという場所はヘブロンの南にあり、イエスの弟子の中で唯一ガリラヤ出身ではなく、南ユダの出身だったという事です。
また、ユダの役割が何だったかという点については、ヨハネによる福音書12章にナルドの香油の出来事が記録されていて、そこを読むと分かることがあります。マリアが非常に高価なナルドの香油をイエスの足に塗った場面で、ユダは「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と抗議するのですが、次の6節に「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」とあり、13章29節にも「ユダが金入れを預かっていた」と書かれているので、弟子集団の中で会計係を担っていただろうと考えられています。
裏切り者としてのイメージが強いですが、最初は会計係を任されるくらい、イエスや他の弟子から信用されていたということではないかと思うのです。しかし、そのような人間同士の関係性は、いとも簡単に崩れてしまうというのも現実なのかもしれません。
【ユダの裏切り】
さて、それでは会計係を任されるくらい、信用されていたユダが、なぜイエスを裏切り、祭司長たちに売り渡してしまったのでしょうか。その理由を考えてみたいと思います。
これについて、聖書には明確な理由は記録されていません。ですから、すべてが憶測でしかありませんので、そのことを踏まえて見ていきたいと思います。
第一に上げられるのは「金欲に負けた」という事です。先ほどのヨハネによる福音書の記事にも出てきますが、会計係を任されていたのですが、魔が差したというのでしょうか、預かっていたお金をごまかしてしまったようです。
お金にまつわる事件というのは、2千年の昔から、現代に至るまで、起こり続けていることです。そして、ユダも祭司長たちに、銀貨30枚でイエスを売り渡す約束をしているのです。しかし、銀貨30枚というのは、当時の奴隷の値段と同じだというのです。自分の師であるイエスを裏切るのに、銀貨30枚というのは安すぎる感じがするので、金欲が第一の理由ではない気がします。
次によく上げられる理由として、イスカリオテのユダという名前は、出身地ではなく、ユダヤ解放運動のシカリ派から来ているとして、イエスがユダヤをローマの支配から解放するメシアだと期待していたという説です。
ユダはメシアだと言われているイエスが、何か行動を起こしてくれないかと期待していたのですが、なかなか行動せずに3年の月日が経っているのです。3年待ったけれど何も起こらない、期待していたのに、期待外れだったという事が、イエスを裏切り、祭司長たちに売り渡した理由だというのです。
この説をさらに掘り下げて、祭司長たちに売り渡し、イエスを追い込めば、何か行動に移すのではないかという、最後の期待もあったかもしれません。いずれにせよ革命家イエスを期待していたという事です。
他にも様々な推測がありますが、最後のもう一つ、聖書の外典と呼ばれる文書の一つにユダの福音書というものがあり、そこでは、ユダの行動は神の計画に従ったものだとしています。それと同じような説があるのです。非常に損な役回りではありますが、イエスを十字架へと向かわせるためには必要な存在として、ユダが選ばれたと考えることも不可能なことではありません。しかし、いずれにしても、明確にこれだという理由はありませんし、聖書を読む一人ひとりがユダの心境に思いを寄せながら、読むという事が大切なのではないかと思います。
【剣をさやに納めなさい】
もう一人、イエスとユダ以外に重要なキーパーソンがいます。それは、大祭司の手下に切りかかった弟子です。イエスの弟子たる者が、暴力に訴えるなんて、いかがなものかとお叱りを受けるだろうと思いますが、この人の心境に触れることも、とても重要なことではないかと思っています。
はじめに、この弟子が誰かという事ですが、ヨハネによる福音書18章10節を見ると「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした」とあります。この弟子はペトロだったという事です。
それでは、なぜペトロは大祭司の手下に切りかかったのでしょうか。これについては、割と単純な理由だったと思えます。最初に思い浮かぶのは、自分の師であるイエスが捕らえられようとしているわけですから、イエスを守るために大祭司の手下に立ち向かったと考えて間違いではないでしょう。
ペトロの中では、勇敢に手下に立ち向かったという思いが強かったと思います。しかし、イエスの反応は、ペトロにとっては意外なものだったのではないでしょうか。この記事は4つの福音書が記録していますが、少しずつ違いがあります。
マタイによる福音書は、読んでいただいたので分かるように、イエスがペトロに対して戒めるように「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」という有名な言葉をかけています。しかし、マルコによる福音書では何も言っていません。ルカによる福音書は「やめなさい。もうそれでよい」と語り、手下の耳を癒されています。ヨハネによる福音書では「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は飲むべきではないか」と語っています。
マタイによる福音書とヨハネによる福音書は「剣をさやに納めなさい」という言葉が共通して語られ、マタイによる福音書では、さらに踏み込んで「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と非暴力を連想させる言葉をかけているのです。
ペトロに限らず、多くの人は自分が正しいと思うことをする時、ある程度の実力行使、つまり、暴力も認められると思うのではないでしょうか。しかし、イエスはそれを否定します。何故なら、人間の思う正しさ、つまり、正義には限界があるという事なのです。
【愚かな正義感】
今回のタイトルは「愚かな正義感」としました。ペトロという弟子は、師であるイエスが捕らえられるという事は間違っている。だから、その間違いを正さなければならないという自分の正義を貫くために、剣を取り、大祭司の手下に切りつけたのです。
ペトロに限らず、多くの人は自分の中に正しさ、正義感というものを持っていて、様々な事柄を判断する時の、判断基準としています。正しいことには賛成し、間違っていることには反対するのです。たぶん、このような正義感は誰もが持っているものではないかと思うのです。私も自分の正義感を持っていて、それに照らして、様々なことを判断しています。
以前、お話したことがあるかも知れませんが、15年位前のことになりますが、私が横須賀にいた頃、日本キリスト教協議会という団体が主催する「子ども平和会議」という集会が横須賀で開催されました。金曜日から月曜日までのプログラムで、日曜日は近隣の協力教会に出席することになっていました。
私は自分の教会があるので、土曜日のプログラムに参加して、日曜日は午後のプログラムに参加することにしていました。日曜日の礼拝が終わり、そのまま電車に乗って、汐入という駅まで行こうとしていたのです。日曜日のお昼頃だったので、電車はすいていて座っていたのですが、しばらくするとトッポイ兄ちゃんが乗って来て、足を投げ出して座り、大ボリュームの携帯で音楽を聴いていました。
周りの人は迷惑そうな顔をして、車両を移っていく人もいました。そういう光景を見ると、私の中の愚かな正義感が頭をあげてしまい、その兄ちゃんの所まで行って、投げ出している足を思いっきり蹴り上げました。そして「コラッ」て凄んだら、相手が「すみません」と謝ってきたのです。その瞬間、私も我に返って、さっきまで礼拝で「イエスさまは」なんて語り、昨日は「平和を作るためには」などと語っていたことを思い出し、本当に恥ずかしくなり、私も彼に謝りました。
皆さんは、このような経験をされないと思いますが、人間の愚かな正義感の行きつく先は、本当に愚かな結果しかないということを私は経験しました。ペトロも似たような思いを持ったのではないかと思います。
そのような私たちに向かって、イエスは「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と語るのです。人間の正義感は絶対的なものではありません。矛盾だらけの相対的なものでしかないのです。そんな自分の正義感を通す時、自分の正義感の矛盾によって滅びてしまうのです。さらに、その正義感で事の善悪を判断するということは、自分を神とするという罪に陥ってしまうのです。
祈 り
賛美歌 新生461 迷い悩みも
主の晩餐
献 金
頌 栄 新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷
後 奏
2025年4月6日 主日礼拝
投稿日 : 2025年4月6日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー