前 奏
招 詞   詩編16編9節
賛美歌   新生120 主をたたえよ 力みつる主を
開会の祈り
賛美歌   新生 93 たそがれの空よりも
主の祈り
賛美歌   新生415 わが主よここに集い
聖 書   ガラテヤの信徒への手紙1章1~5節
                         (新共同訳聖書 新約P342)
宣 教   「あなたがたにあるように」    宣教者:富田愛世牧師
【手紙の挨拶】
 今日からしばらくの間、ご一緒にガラテヤの信徒への手紙を読んでいきたいと思います。最初なので、ガラテヤの信徒への手紙とは、どのような手紙なのかという概要を説明したいと思ったのですが、それは来週以降に回して、今日はパウロが大切にしている福音、そして、その福音を語ったイエスについて、見ていきたいと思います。
 そうは言っても、やはり手紙ですから、著者であるパウロがどのような思いで、この手紙を書いたのかについては、共通の理解をしておいた方が良いと思いますので、そこから見ていきたいと思います。
 まず、今日は1節から5節までをお読みしましたが、ここに書かれているのは、挨拶です。パウロの手紙は、いつも挨拶から始まっています。誰も不思議なことだとは思わないと思います。私たちが手紙を書く時にも、同じように挨拶から始めると思うのです。
 しかし、それぞれの手紙を比べてみるならば、少しずつ、その内容や書き方が違っていることに気付かれると思うのです。そこには手紙を書くに至った様々な思いやパウロ自身の心境、宛先への思いが込められているのです。
 この手紙の著者であるパウロは、ご存じのようにキリストの福音に出会う前は、筋金入りのユダヤ教徒、律法主義者で、クリスチャンを迫害するほどでした。それがキリストの福音によって、信仰的に解放され、喜びと自由を手に入れたのです。この特別な体験から、パウロはキリストの福音を伝える使徒となりました。使徒というと何か特別な地位にあるように感じますが、現代的に言い替えるなら伝道者だという事です。
 パウロは、キリストの使徒として福音を伝え、教会というキリストを信じる者の群れ、共同体を作り上げていったのです。その共同体、教会に宛てた手紙なので、特別な思いを挨拶に込めているのです。

【イエス・キリストとは】
 この挨拶の中でパウロは「主イエス・キリストの恵みと平和」と語っています。現代のクリスチャンにとっては、なんとも思わない言葉かもしれませんが、当時の人々にとっては、イエス・キリストとはどんな方なのかという思いがあったのではないでしょうか。噂としては聞いたことのある人もいたでしょうが、現代のような記録は、まだなかった時代です。
 もちろん、この手紙は教会に宛てて書かれたものですから、教会という信仰共同体の中で「イエス・キリスト」を知らない人はいなかったと思います。しかし、名前は知っていても、その実体を理解していた人は多くはなかったかもしれません。
 そして、イエス・キリストについて知らなければ、ここで語られる恵みと平和が、どんなものなのか理解できないと思うのです。
 まず、イエスという方について見てみるならば、聖書の記録によるならば、当時のユダヤ、エルサレムに大勢いた、厳格な、つまらない宗教家とは違った類の宗教家だったようです。
 そもそも、活動していた場所が、宗教家らしい場所ではありませんでした。宗教家なら、宗教家らしく、神殿を中心に活動すれば良かったのですが、イエスの活動地域は「異邦人のガリラヤ」と呼ばれる、ガリラヤ地方でした。 
 ですから、当然のように、イエスの周りにいた人は、異邦人であり、罪人というレッテルを張られたような人々だったのです。そして、律法で禁じられている行動、つまり、異邦人を招き、食事を共にしました。また、罪人と呼ばれる人々と交わり、彼らとも食事を共にしたのです。
 神の国について、語られる時も、よく「たとえ」を用いたと記録されています。つまり、学問的な専門用語を用いないで、日常の言葉を用いて、農民や漁師たちに語られていたという事なのです。

【イエスの恵みと平和】
 そのような、宗教家らしくない、庶民的なイエスにある恵みと平和なのですから、やはりそれは特別なものではなく、日常の中にあるような恵みと平和だったのではないかと思わされるのです。
 新生讃美歌103番の「望みも消えゆくまでに」の折り返しに「数えよ 主の恵み 一つずつ 数えてみよ 主の恵み」という歌詞が出てきます。何気ない日常の中に、実は恵みの出来事が山のように埋もれているのです。
 私は数年前から祈りの中で「新しい朝を与えてくださってありがとうございます」と祈るようになりました。若い頃は、朝が来るのが当たり前だと思っていましたが、朝が来るのは当たり前ではありません。そして、朝、目が覚めて起きられるという事も当たり前のことではありません。
 神がこの一日を私に与えてくださり、生かしてくださるという事に、改めて気付かされてから、このように祈るようになりました。
 このような他愛もない事柄、しかし、神の御心でなかったなら、あり得ない事柄というものに気付かせてくれるのが、イエスの恵みなのです。
 さらに、それらの何気ない恵みに気付かせてもらうことによって、感謝することが出来るように、運ばれていくのです。感謝することが出来るという事も、当たり前のように思っているかもしれませんが、感謝できるという事自体が大きな恵みであり、そのような自分に気付くことによって、優しい気持ちになれるのです。
 こういった他愛もない、一つひとつの出来事が繰り返されるという事が、イエスの平和なのです。今、世界を見渡すなら、このような平和から、ほど遠い場所に置かれている人が沢山います。
 ミャンマーの軍事政権によって苦しめられている人々、ロシアからの攻撃に怯えているウクライナの人々、イスラエル軍の地上攻撃や爆撃によって、住む場所が奪われ、愛する家族や友人が殺されているパレスチナの人々に、私たちはどのような手助けをすることが出来るのでしょうか。何もできない無力感に落ち込んでしまいます。

【あなたがたにあるように】
 教会に集い、キリストの福音を聞く時、私たちには大きな喜びと恵みが与えられ、平安を味わうことが出来ます。それが、パウロの語る「主イエス・キリストの恵みと平和」なのです。そして、その恵みと平和を受けたいと思うのは、人間としての自然な欲求で、それ自体が悪いことではありません。
 しかし、それだけで満足していて良いのでしょうか。キリストの恵みと平和を受けることのできた、幸いな一人として、それを独り占めして、満足していたとするならば、どうなのでしょうか。
 もちろん、そのような人に恵みと平和を与えないという神ではありません。そのような心の狭い者であったとしても、キリストの恵みと平和を受けることは出来るのです。
 しかし、それを独り占めしていたとするなら、その恵みと平和は濁ってしまうのではないでしょうか。パレスチナの死海を考えてください。ヨルダン川からの恵みの水が流れてきます。しかし、出ていくこ所がないのです。死海は豊かな水を受けるだけで、外に出そうとしないので、濁ってしまい、生き物が住めない、死の海になってしまったのです。
 死海のようにならないためには、もう一歩、踏み込んで、私が受けた恵みと平和を「あなたがたにあるように」と送り出すことが必要になるのです。自分だけで満足するのではなく、分かち合うことが出来るようになるというのは、大きな変化なのです。キリストの恵みと平和を受けた者は、変わることを恐れず、成長することが出来るのです。
 福音とは、受けるだけでなく、与えることによって得られる、豊かさを味わい、得をするとか、損をするという計算から解放され、そのままの自分でいることが許される景色を見せてくれるのです。

祈 り
賛美歌   新生554 イエスに導かれ
主の晩餐  
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏