前 奏
招 詞 創世記15章6節
賛美歌 新生120 主をたたえよ 力みつる主を
開会の祈り
賛美歌 新生378 海よりも深い主の愛
主の祈り
賛美歌 新生134 生命のみことばたえにくすし
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節
(新共同訳聖書 新約P344)
宣 教 「信じるだけで」 宣教者:富田愛世牧師
【伝道旅行】
今日の箇所には、新共同訳聖書では「すべての人は信仰によって義とされる」という小見出しが付けられています。パウロが主張する、信仰によって義とされるという事が、この箇所の大きなテーマになっているわけです。
そこで、今日は、パウロがガラテヤ地方で伝道していたことを聖書の証言から見ていきたいと思います。パウロという人物は、使徒言行録22章3節によると、キリキア州タルソス生まれのユダヤ人で、エルサレムのガマリエルというラビの元で律法を学んだ、筋金入りのファリサイ派ユダヤ教徒でした。その熱心さはキリストを信じる者たちを迫害し、縛り上げ、殺す事さえしたと告白しています。
そのようなパウロがキリストを信じる者たちを処罰するため、ダマスコという町へ行く途中、復活のキリストに出会ってしまうのです。キリストに出会ってしまったパウロは目から鱗が落ちるような体験をして、今まで固く守っていた律法を捨て去り、キリストを信じる信仰へと回心したのです。
クリスチャンになったパウロは、使徒言行録13章によると、数人のクリスチャンと共に伝道の旅へと出ていくのです。パウロの第一回伝道旅行と呼ばれていますが、観光旅行のようなものではなく、仏教でいう「行脚」のような旅です。
パウロ一行は、アンティオキアという町を出発し、船でキプロス島へと向かい、次に小アジア地方に向かいました。その後、使徒言行録15章36節を見ると、パウロは前に行った町へ、もう一度行きたいと思い、第二回伝道旅行と呼ばれる旅に出ているのです。今度は陸路でアンティオキアから北上して、小アジア、ガラテヤ地方を通り、ギリシアにまで旅しているのです。
この旅でガラテヤ地方のユダヤ人のいる町々で、福音を伝え、律法を守ることによって義とされるのではなく、ただキリストを信じる信仰によって救われるということを伝えました。そして、ガラテヤ地方にも複数の教会が誕生したのです。
パウロは、この伝道旅行からアンティオキアに帰るのですが、すぐに三回目の伝道旅行へと旅立っているのです。使徒言行録18章23節に「しばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフルギアの地方を次々に巡回し」とあります。
もう一度、ガラテヤ地方の教会に行ったのですが、そこで、とんでもないことが起こっていたようなのです。それはエルサレムから来たと思われるユダヤ主義的なクリスチャンによって、信仰だけでは不十分だから、律法を守らなければならないと惑わされていたという事です。
パウロは、ガラテヤ教会の現状を見て非常に心を痛めたと思います。そして、エフェソに約2年間、滞在している中で、この手紙を書いたようなのです。冒頭の挨拶に「わたしと一緒にいる兄弟一同から」とあるようにエフェソ教会の人たちにも、ガラテヤ教会の現状を伝え、一緒に祈っていたのだと思います。
【私の内に生きるキリスト】
何度も繰り返しますが、キリストに出会う前のパウロは、筋金入りのファリサイ派ユダヤ教徒でした。律法が生活のすべてを占めていたのです。朝起きてから、夜寝るまで、もしかすると寝ている時も律法に従って寝ていたのかも知れません。
15節に「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」と語っています。キリストに出会う前のパウロは、このように、自分たちユダヤ人は罪人ではない。神に選ばれた特別な民族なのだと本気で思っていたようなのです。
しかし、キリストに出会うことによって、目から鱗が落ちるような体験をするのです。そこには、きっと律法を守ることでは埋めることのできない心の隙間、穴があったのではないかと思うのです。
いつも、なにか物足りなさを感じていた。けれども、それが何か解らなかったのです。そして、その物足りなさを埋めるために、さらに律法を厳密に守ろうと努力したのではないかと思うのです。
そうやって、律法にがんじがらめにされてしまい、自由や喜びを忘れてしまったのではないかと思うのです。
19節を見ると「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」とあります。律法に生きていたパウロはキリストに出会うことによって、律法に死にました。代わりにパウロの中にはキリストが生きているのです。ここにはどういう意味があるのでしょうか?
律法は人を縛りますが、キリストは自由と解放を与えます。律法は罪を教えますが、キリストは赦しと救いを与えるのです。律法は行いによって実を結ばせますが、キリストは喜びと感謝という実を与え、その実を受け取った者は、それに応えたくなって、行動へと促されるのです。
【モチベーション】
信仰と行動という事には、密接な関係があります。信じていると口で言うだけで、何も行動がなかったとするならば、絵に描いた餅だと批判されてもおかしくないかもしれません。
逆に、行動することによって信仰を表わそうとするならば、その行動がどんどんエスカレートしてしまう可能性があります。今では異端だと言われていますが、過去において、キリスト教のあるグループの人たちは、信仰によって火の中を歩いても熱くないと言って、火渡りをしていたという事です。
このようなことは、極端な例ですが、信仰を表現するためには行動することも大切です。キリストに出会う前のパウロは義とされるために行動しました。律法を厳守するという事によって義と認められようとしたのです。非常に熱心で、純粋な信仰心から来ていると感じられるかもしれませんが、本当にそうなのでしょうか。
信仰的な行いとして、日本人になじみのあるものが、精進するとか修行するという行為です。何かを願い、それを満願成就させるために精進するというのが、古くからの日本的な美徳の一つだと思います。また、自分を高めるために修行するという事も同じような日本的美徳の一つなのです。
しかし、これらの考え方の根本にあるものは、唯一絶対の神ではなく、事を成し遂げるための精神力であり、個人の努力なのではないでしょうか。強い精神力を持つことも、努力を重ねることも大切なことです。
しかし、パウロは義とされた喜びと感謝が自分を突き動かしていると語るのです。つまり、方向性が反対なのです。義とされるために何かするという方向から、義とされたから感謝と喜びの現われとして何かをするのです。
律法の目的は、それ自体を守ることではなく、律法によって、罪の自覚が芽生え、それによって、罪の赦しを願うようになり、罪を赦してくださる唯一の方法、道としてキリストの福音に導かれるという事なのではないでしょうか。
【信仰のみ】
神が私たちに与えてくださった恵みは、信仰によってのみ義とされる、ということです。これは神からの約束ですから確かなものなのです。ただ、ここで神を信頼していいのか?という疑問を持つ方がいるかもしれませんが、それは、日本的な「何かが神になる」という思想があるからです。
唯一絶対の存在を神と認識するのが、聖書の神観です。唯一絶対ですから、そこに間違いはありません。ですから、神の約束は確かだと確信するしかないのです。
ところが、私たちは様々な誘惑を受けることによって、この確信が揺らいでしまうのです。今言ったように、日本的な神観から、聖書的な神観へと変えられたはずなのに、すぐ古い思いが頭をもたげてくるのです。
先ほど言ったように、精進するとか、修行するといった、宗教的行為がなければ、何となく収まりがつかないような気がしてしまうのです。怠けているような気がしてしまうのです。
しかし、パウロがここで言おうとしていることは、義と認められるために、救いを得るために何かをしなければならない衝動に囚われるとするなら、その思いがキリストの死を無意味にするものだというのです。
キリストの十字架は、自分の罪を担いきれない私たちに代わって、イエスが私たちの罪を背負って、十字架に架かり、苦しめられ、血を流し、死んでくださったのではないでしょうか。
その贖いの死、十字架の死があったから、神は私たちの罪を赦してくださると約束してくださったのです。神が罪を赦してくださると約束してくださった以上、私たちがそこに条件を付けることはできないのです。
祈 り
賛美歌 新生518 イエスを信ぜしより
献 金
頌 栄 新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷
後 奏
2025年5月11日 主日礼拝
投稿日 : 2025年5月11日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー