前 奏
招 詞   イザヤ書30章18節
賛美歌   新生 21 栄光と賛美を
開会の祈り
賛美歌   新生 42 朝の光の中で
主の祈り
賛美歌   新生460 戸口の外にイエスは立ちて
聖 書   フィリピの信徒への手紙1章12~21節
                 (新共同訳聖書 新約P361)
宣 教   「どちらも感謝」    宣教者:富田愛世牧師
【獄中書簡】
 6月はフィリピの信徒への手紙をお読みすることとなりますが、2023年の4月から9月まで、約半年かけてこの手紙を読んでいたので、今回は「同じようなことを言っている」と思われるかもしれませんが、ご容赦願いたいと思います。
 聖書の言葉は、それを読む時の背景、状況、年齢などの経験の違いによって、視点が変わって、新たな発見がありますが、基本的なメッセージは変わらないと思います。そういう意味で「同じこと」を言ったとすれば、それは本当に大切なことだと受け止めていただけると良いと思います。
 さて、この手紙は「喜びの手紙」と呼ばれていますが、この手紙を書いた時のパウロは、ローマで囚われの身となっていました。今日読んでいただいた13節を見ると「わたしが監禁されているのは」と書かれています。
 この言葉を読むと、鉄格子のはめられた監獄にいるように思われるかもしれませんが、実際には「軟禁状態」だったと考えられています。13節の続きを見ると、そこには「兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、」とあります。パウロが捕らえられていることを「兵営全体」が知り、さらに「他の人々」にも知れ渡っていたというのです。
 「パウロが投獄された」ということを兵隊たちが噂し、さらに関係ない人たちまでが知っていたということではなく、パウロが、それらの人々に福音を伝えていたという事なのです。
 パウロは軟禁状態という、不自由さの中にいましたが、この事実を伝え聞いていたであろうフィリピ教会の人々に向かって「喜びなさい」とか「喜んでいる」と語っているのです。
 もし、私がこのような状況で、誰かに何かを伝えなければならなかったとすれば、「喜んでいる」などとは言えずに愚痴をこぼしていたのではないかと思うのです。しかし、パウロは喜びを語っています。ここにパウロの信仰姿勢というものが表れているのではないかと思います。

【キリストが宣べ伝えられている】
 もう一度12節を見てみましょう。ここには「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」と書かれています。
 きっとフィリピ教会の人たちは、パウロが捕らえられたことを聞いて、とても心配し、不安の中にいたのだと思うのです。そして、そのような現実に対して、パウロは心配することはありませんと伝えたかったのだと思います。
 なぜなら、この投獄という出来事は、不安でもなければ、心配するような事でもないというのです。そして、「かえって福音の前進に役立った」と前向きに事柄を捉えて、フィリピ教会の人々を励まそうとしているのです。
 また、使徒言行録19章21節で伝道旅行を終え、エルサレムに行った後の事として「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言って、ローマに行くことを願っていたのです。そして、コリントの信徒への手紙一9章23節では「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」と語っています。
 ローマに行くためには「どんなことでもします」という事なのです。そして、この「どんなこと」とは捕らえられてしまうということだったのです。
 14節には「わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」とあります。パウロの現状を知った人たちは、パウロが訪ねてくる人々に、生き生きと福音を語っている様子を見て、福音を伝えることが、神の計画に沿ったことだという確信を得たのだと思うのです。
 そして、その人たちも勇敢に御言葉を語るようになったというのです。ただ、そのような肯定的に捉える人ばかりではなく、党派心から福音を伝えようとする人々もいたようなのです。
 それがどのような人々なのかは、明確には示されていないので分かりませんが、とにかく、パウロに反感を持っていた人々だという事は間違いないと思います。しかし、反感を持っていたとしても、その人々が一生懸命になって、福音を語っているとするならば、それをパウロは喜んでいるのです。
 神の計画というのは、人間的な駆け引きの中にあったとしても、それらをすべて「益」に変えることが出来るのだと、パウロは語るのです。

【生きることはキリスト、死ぬことも益】
 ローマで囚われの身となっているパウロに自由はありませんでした。もちろん軟禁状態ですから、ある程度の自由はありましたが、自由だと言い切ることはできないわけです。しかし、与えられている状況の中で、あらゆる方法を用いて福音を語り続けたのです。
 そして、このようなパウロの働きの根拠、また、動機となっているものがありました。それは使徒言行録18章9節から10節を見ると分かるように以前、コリントに滞在していた時に「「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」という神の声を聴いたからなのです。
 パウロの目的は、異邦人の使徒として福音を伝えることでした。使徒という働きを、パウロは人から与えられたのではありません。直接、神から授かったと証ししています。しかし、そのことのゆえに、ある人々は、パウロの使徒職を認めないとして、パウロを排除しようとしました。
 繰り返しになりますが、パウロは自分に与えられた使命は、異邦人の使徒として、異邦人に福音を伝えることだと確信しているのです。人から与えられる称号や称賛など、パウロにとって、取るに足りないもの、何の価値もないものだったのです。ただ、神の計画の中で福音を語ることだけが、パウロの後ろ盾だったのです。
 ですから、パウロは21節で「生きるとはキリスト」と語るのです。つまり、自分の生きる目的は、キリストの足跡を辿ることなのだというのです。そして、この言葉の続きとして「死ぬことは利益なのです。」と語るのです。
 以前この箇所からメッセージを語った時、「生きるとはキリスト、などと語れるパウロは自信過剰か脳天気な人と思われるかもしれません」と言いました。しかし、福音書を通して知ることのできるイエスは、ただの人として生まれ、私たちと同じように生活されたのです。そんな私たちと共にいてくださるのがイエスなのです。
 パウロは、そんなイエスの生き様を語ろうとしているのです。そして、それだけでなく「死ぬことは利益」つまり、死を恐れることなく、死の不安に打ち勝って生きる力が与えられると語るのです。死が全ての終わりではなく、その先に希望があるというのです。

【どちらも感謝】
 私たちの周りの状況はどうでしょうか。心の底から「わたしは自由に生きている」と言える人がいるでしょうか。お前はどうだと言われれば、私は自然体ですと言ってきましたが、それなりに、何かによって縛られているわけです。
 よく社会人と呼ばれる大人は、学生に向かって「学生は気楽でいいね」と言います。しかし、学生も所属している「学校」という組織とのしがらみの中で、自由気ままに過ごしているわけではないと思います。
 職業を持っている人は、所属する会社や団体のしがらみがありますし、主婦と呼ばれる人たちも家庭というしがらみの中にいます。ほとんどの人は、何らかのしがらみによって囚われの身となっていて、パウロのように、苦しみ、辛さ、あせり、不自由さを味わっているのです。
 パウロは不自由さの中で「生きるとはキリスト」と語るように、自身の生きる目的が明確で、訪ねてくる人には積極的に福音を伝え、手紙を書いて多くの人々を励ましました。そして、「死ぬことは利益」というように、殺されてしまったとしても、それは敗北ではなく、永遠の命を得ることであり、神の元への凱旋だと確信しているのです。
 今日のタイトルは「どちらも感謝」としましたが、福音を伝える時の動機が純粋なものであっても、党派心のような不純なものであっても、福音が伝えられることに感謝すると語っています。
 また、生きることはキリストの足跡を辿り、福音を語ることなので、感謝な出来事ですが、死んだとしても、それも感謝すべきことだというのです。
 私たちは、すぐに白黒、どちらかに決めたがる癖があります。しかし、現実の中で、どちらかに決めなければならないことが、どれほどあるのでしょうか。無責任に「どちらでもいい」というのではありません。どちらも正解だという事がたくさんあるはずです。
 そして、どちらを選んだとしても、それが神の計画の中にあるのならば、どちらも感謝すべき出来事として受け止めることが出来るのではないでしょうか。

祈 り
賛美歌   新生521 キリストには替えられません
主の晩餐  柿崎幸代・柴山温行
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏