前 奏
招 詞   エレミヤ書9章23節
賛美歌   新生 21 栄光と賛美を
開会の祈り
賛美歌   新生 60 わが霊たたえよ
主の祈り
賛美歌   新生463 こころの扉
聖 書   フィリピの信徒への手紙3章2~9節
                         (新共同訳聖書 新約P364)
宣 教   「与えられる義」     宣教者:富田愛世牧師
【3つの警告】
 今日、与えられた聖書の箇所は衝撃的な言葉で始まっています。「あの犬どもに注意しなさい」とパウロが語っているのですが、敵対する者に向かって「犬」という表現を用いるのは、現代の日本社会では、かなり反感を買うのではないかと思います。
 と思ってしまうのは、私が犬を飼っているからなのかもしれません。日本のペット飼育率は28%あり、犬を飼っている割合は12%だという事です。数にすると約716万匹の犬が日本中で飼われているという事です。ちなみに、総務省統計局によると9歳以下の子どもの数は約840万人という事ですから、8歳以下の人口に匹敵するかもしれません。
 人口の12%の人たちが犬を飼っていて、その多くは家族と一緒だという感覚を持っていると思われますから、「犬」という表現はいかがなものかと思いますが、慣用句的に用いられているわけですから、そこは突っ込まずに話しを進めたいと思います。
 前置きが長くなってしまいましたが、パウロは3章1節の後半で「同じことをもう一度書きますが」と語り始めています。パウロという人は、しつこい性格だったようで、大切だと思ったことは、何度も繰り返し伝えていたようです。パウロにとって大切な事とは、先月読んでいたガラテヤの信徒への手紙と同じように、フィリピの信徒たちを惑わす人々に注意しなさいという事なのです。
 そして、2節でパウロは、犬に注意し、よこしまな働き手に気を付け、割礼を持つ者を警戒しなさいと警告しています。3つの警告が出されているわけですが、これは3種類の人々という事ではなくて、3種類の書き方をすることによって、事の重大さを強調しているのではないかと思うのです。
 そして、ここには2つのメッセージが込められています。一つ目は教会に及んでいる危険です。フィリピ教会は危険にさらされていたという事です。その危険とは何だったのでしょうか。

【惑わす理屈】
 それはフィリピ教会の信徒たちを改宗させようとするユダヤ教徒の事だったのです。ユダヤ教徒というと、民族的にもユダヤ人の血を受け継ぐ者たちと考えるかもしれませんが、ここで語られるユダヤ教徒は異教からユダヤ教に改宗した人たちだと考えられています。だからパウロは「切り傷にすぎない割礼」という言い方をしたのではないかと思うのです。
 この当時のキリスト教は現代のように教義的な事もまだ整っていなかったので、当時の人々からはユダヤ教の一派だと思われていました。ユダヤ教キリスト派とかユダヤ教ナザレ派などという呼び名があったそうです。ですからユダヤ教徒の人たちがキリスト教という共同体にも簡単に入ってきて、混乱させていたようなのです。
 少し横道にそれますが、先日、連盟から「注意喚起」の文書が出されました。それは「解散命令後の旧統一協会の動きと教会の対応」というものでした。簡単に言ってしまうと、3月末に東京地方裁判所が旧統一協会に対して解散命令を出しました。それに対して、旧統一協会は宗教弾圧だとか、信教の自由の侵害だと反発しています。そして、キリスト教を含む宗教団体に対して、自分たちと連帯して、宗教弾圧に立ち向かって欲しいという事です。
 しかし、裁判所は宗教弾圧をしているのではなく、法人格に対して、解散命令を出しているので、宗教弾圧にはなりません。市川大野教会も法人格は持っていませんが、宗教活動をしているのですから、旧統一協会の主張は正当性を持っていません。そして、各教会に対しては、旧統一協会の信者が祈祷会や礼拝に来て、自分たちの主張に連帯してほしいとお願いしに来ているそうですから注意してくださいという事でした。
 フィリピ教会には旧統一協会の信者は来ませんでしたが、ユダヤ教徒がやって来て、救われるためには、キリストを信じるだけでは不十分だ、律法を遵守し、割礼を受けなければ、本当の救いに入ることは出来ないと訴えたようなのです。
 何時の時代にも、キリストの教会を惑わそうとする、サタン的な力というものが存在するようで、注意する必要があるようです。そして、教会を惑わす時は、もっともらしい理屈をつけてやってくるのです。

【肉の誇り】
 二つ目のメッセージは律法主義的な形に捉われる危険です。フィリピ教会の信徒たちはキリスト教に改宗した異邦人が多数を占めていました。異教徒からの改宗者だったのです。そういう人たちにとってユダヤ教というのは、キリスト教の母体となったものですから、そこで行われる伝統的な儀式や律法に、特別な魅力を感じたとしても不思議ではないと思います。
 現代のキリスト教会においても、ユダヤ教の伝統的な儀式や律法に魅力を感じる人が少なくはありません。それが高じて異端のグループを作ってしまう人たちもいるのです。ユダヤ教そのものを否定するつもりはありませんが、キリストの福音という、人を罪から解放させる言葉と比べるならば、伝統や儀式、割礼などは何の意味もないものだと思うのです。
 ここで、ユダヤ教徒を自認する者にとって、なくてはならないしるしが割礼でした。私はイスラエルに行った事が無いので、聞いたお話しかすることが出来ませんが、数年前、渡辺暢雄先生がイスラエルに行った時、年配のユダヤ人の方に「ユダヤ人のアイデンティティーは何ですか」と尋ねたそうです。するとその老人は、きっぱりと「割礼です」と答えたそうです。昔も今も変わらないようです。
 しかし、パウロはそれを「切り傷にすぎない」と語り、その意味を問いかけているのです。もちろん、フィリピ教会を混乱させているユダヤ教徒は異教からの改宗者ですから、その意味を問いかけることに大きな意味がありますが、生粋のユダヤ人であったとしても、その意味を理解できる人は、そう多くはなかったのかもしれません。
 ヘブライ語聖書において、割礼とは神が、神の民と認めた者に対して受けさせる「しるし」でした。そう考えるならば、受けるか受けないかに意味があるのではなく、神の存在にこそ意味があるという事は、簡単にわかるはずです。しかし、律法主義や形式主義に陥ってしまった人は、思考停止状態にあるので、それを理解することが出来なくなってしまうのです。
 真の割礼は、神の霊によって与えられるものです。ですから、それを信じて、確信していれば平安が与えられるのです。しかし、肉の割礼は、形だけですから、その後ろ盾になるものを必要とします。それが律法の行いとなるのです。
 毎日の祈り、律法を忠実に守ること、生贄を捧げること、伝道すること、そういった人間の努力と業績を頼みとする愚かなものとなるのです。

【与えられる義】
 かつてはパウロも肉的なしるしを誇りとしていましたが、キリストとの出会いによって、その価値観が逆転しました。
 5節から6節にパウロの肉的な誇りが書かれています。
「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」
 パウロが誇りとするところのものは、手に入れようとしても、手に入れることの出来るものではありません。八日目に割礼を受けるという名誉な事柄が欲しいと言っても、もし大人になってからユダヤ教に改宗したのなら絶対に無理な事です。
 イスラエルの民に属しという事も、ベニヤミン族の出身という事も生まれながらのもので、生まれてしまった人にとってはどうしようもできないことです。手に入れることの出来ない貴重なものなのです。しかし、今のパウロにとっては何の価値もなくなってしまいました。
 神に義と認められるという事は、律法を行うことによる自分の儀ではありません。何かをして、という事は、究極的には自分のためでしかないのです。
 しかし、神から与えられる義というのは、自分のためではありません。他者のためなのです。キリストへの信仰とは福音を生きることに他なりません。福音を生きるならば、隣人に気付かされてしまうのです。隣人に気付いてしまった時、そこに泣く者がいるなら共に泣き、喜ぶ者がいるなら、共に喜ぶのです。それが神に認められて義とされるということなのです。

祈 り
賛美歌   新生660 力と光と恵みの神
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏