前 奏
招 詞   箴言4章8~9節
賛美歌   新生 21 栄光と賛美を
開会の祈り
賛美歌   新生464 主が来られて 呼んでおられる
主の祈り
賛美歌   新生104 雨を降りそそぎ
聖 書   フィリピの信徒への手紙3章10~4章1節
                       (新共同訳聖書 新約P365)
宣 教   「栄冠を得るために」     宣教者:富田愛世牧師
【命どぅ宝の日】
 6月23日は「命どぅ宝の日」です。この「命どぅ宝」という言葉は、元々、沖縄の方言で「命こそ宝」という意味です。沖縄の人々は長い歴史の中で戦争や困難を経験してきました。そのような経験の中で培ってきた、命の尊さを表す大切な言葉なのです。
 命は何にも代えがたい最も大切なものであり、どんな状況でも命を守ることが最も重要であるという教えは、今、考えると当たり前のことかもしれません。しかし、太平洋戦争中の沖縄戦では、多くの一般市民が犠牲になりました。その悲惨な体験から、「命どぅ宝」という言葉は、戦争の愚かさや平和の大切さを伝える象徴的な言葉となりました。
 私は戦争を経験していませんから、聞いたことをお話することしかできませんが、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本軍は「生きて虜囚の辱を受けず」という戦陣訓の元に、天皇のために命を捨てることが名誉だと言って、兵隊だけではなく、一般市民をそそのかして、人間の命を粗末に扱いました。命どぅ宝という精神とは真逆なものだったようですが、今、平和な時代にあって、人の命の大切さは改めて確認されなければならないと思います。
 日本バプテスト女性連合では、2006年の第34回総会において、6月23日を「命どぅ宝の日」と定めて「沖縄を『国外』と位置づけ、沖縄の苦しみ・悲しみ・痛みに思いが至らなかったことへの悔い改め/沖縄の歴史に学び‘2度と戦争を起こさない誓い’を新たにする/沖縄バプテスト連盟女性会また教会の女性たちとの交わりを深め、共に福音を担う活動を展開する/沖縄地上戦を悼み、非戦を誓う日であることを覚える」活動を推進しています。
 そして、なぜ教会が命の大切さを語るのかという事について言えば、聖書が命を大切にしているからであり、キリストの福音が、命の大切さを語っているからなのです。

【キリストを知る】
 さて、今日の聖書箇所を見ていきたいと思いますが、とても長い箇所になっているので、3章10節から11節、12節から16節、17節から4章1節と3つに分けて見ていきたいと思います。
 まず10節でパウロは「キリストを知る」という事について語りますが、知るという事は単純に知識において知るということではありません。キリストが、その信仰において、私たちに救いを与えてくださり、信仰を与えてくださるという事に気付かされ、それを受け入れていくことなのです。
 信仰という言葉を語る時、いわゆる御利益宗教やカルト宗教では、私たちの神を信じると御利益がありますと、甘い言葉で誘ってきます。多くの人は、そのような甘い、誘惑の言葉に騙されて御利益宗教やカルト宗教にはまっていくのです。
 しかし、キリストを知るという事は、自分にとって都合の良いことが起こるとか、都合の良い状態が続くという事ではありません。「その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら」という事なのです。
 苦しみがあるのです。死を覚悟しなければならないことも起こるのです。しかし、その先にあるものは、11節で語られる「復活」という事なのです。そして、10節の前半を見ると「キリストとその復活の力とを知り」とあります。キリストを知るという事は、その復活の力を知るという事でもあるのです。
 この力という言葉は、爆発的な力を意味しており、ダイナマイトの語源となった言葉が使われているのです。それほど大きな破壊力を持つ力が、死を破壊し、人間を縛り付けている罪の力を破壊してしまうのです。パウロの人生を変え、今、私たちの人生を変えてしまうほどの力が、キリストの福音なのです。
 また、この復活という事には、永遠の命という概念が関係してきます。キリスト教会に行くとよく耳にする永遠の命という言葉ですが、一般的には不老不死などの概念と混同されやすいと思います。聖書が語る永遠の命とは、死なないことではありません。生物学的に人間は必ず死にます。しかし、永遠の命を得るという事は、神の愛と平和の内に生きることなのです。

【信仰の歩み】
 次に12節から16節を見てみたいと思います。パウロは12節で「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。」と告白し、自らの信仰が未だ途上にあることを語っています。
 信仰の歩みは完成されたものではなく、常に神に向かって進み続けるものです。教会ではよく、クリスチャンではない人に対して「求道者」という言い方をします。これは読んで字のごとく、道を求めている人の事を表わしていると思うのですが、パウロの思想に当てはめるならば、クリスチャンと言われる人こそ「求道者」であるべきなのではないでしょうか。
 また「途上」という言葉には未熟さを感じるかもしれませんが、未熟さを示すものではなく、成長し続ける道を歩んでいることを意味します。私たちの信仰も同じで、歩み続けるならば、日々新しい発見、気付きに出会うことが出来るのです。そして、そのような発見や気付きというものが信仰の喜びと呼ばれるものなのです。
 さらに12節の後半で「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と語ります。これは、私たちの信仰は自分の力によるものではなく、キリストによって与えられた賜物であることを示しています。律法や行いによるのではなく、ただ信仰によって神に義と認められるという真理がここにあります。
 次に13節でパウロは「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」と語り、14節では「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」と語ります。過去の実績や古い価値観にとらわれず、キリストにある新しい価値観に基づいて歩むのです。
 「目標を目指してひたすら走る」などと言われると、何となく競争しているように読んでしまいますが、信仰の歩みは、他者と競争するものではありません。16節に「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」とあります。一つの到達点ではなく、それぞれに到達点が与えられているのです。そこで、神の恵みに応答して、前に向かって歩んでいくのです。
 そして、神が与える賞は、比較や競争によるものではなく、価なしに与えられる恵みなのです。しかし、中にはそのように歩み続けなければならないのはしんどい。途中で疲れてしまいそうだという方もいると思います。でも、安心してください。疲れた時は、イエスが私たちを支え、時には抱きかかえ、おんぶして共に歩んでくださるのです。

【喜びであり、冠】
 最後に17節から4章1節までを見ていきたいと思います。17節でパウロは「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」と語り、共にキリストを目指すようフィリピ教会の人々を励ましています。
 ただ、ここを読んで「わたしに倣う者となりなさい」と語られる時、日本人の感覚では高慢に聞こえるかもしれません。しかし、パウロは自分を完成者だとは考えていません。少し前に戻って12節を見てください。
 ここでパウロは「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。」と語っています。キリストを目指して歩んでいる、途上の者なのだと語っているのです。
 だからこそ「共に目標を目指して走ろう」と呼びかけているのです。その背景には、「十字架に敵対して歩む者」の存在がありました。彼らは自らを信仰の完成者だと思い、十字架の弱さや愚かさを無視し、祝福や成長といった栄光のみを追い求めました。
 19節を見ると、パウロはそのような者たちの結末は滅びであると警告しています。彼らは「腹を神とし」つまり、欲望を第一とし、「恥ずべきもの」を誇りとしているというのです。それは、この世の価値観に基づいた幸福、現代風に言うならば「勝ち組」になることが幸せだという信仰を持っていたのです。
 しかしイエスが示した福音は、この世の価値観をひっくり返してしまうもので、貧しい者、忘れられた者と共に生きる姿でした。パウロは「わたしたちの本国は天にあります」と語り、神の価値観に生きることの大切さを示します。その歩みは神の保証のもとにある確信となり、たとえ不完全であってもキリストを目指して共に歩む仲間が「喜びであり、冠」なのです。
 パウロの信仰は決して一人ではなく、仲間と励まし合いながら築かれました。自分の弱さを認め、仲間と助け合い、謙虚にキリストを目指す歩みこそが、私たちの目指すべき信仰の姿なのです。

祈 り
賛美歌   新生485 主よわれをばとらえたまえ
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏