前 奏
招 詞   ヤコブの手紙5章16節
賛美歌   新生 77 恵みふかき 父なる神
開会の祈り
賛美歌   新生124 この世はみな
主の祈り
賛美歌   新生445 心静め語れ主と
聖 書   民数記11章1~6節
                  (新共同訳聖書 旧約P230)
宣 教   「感謝も、不満も」    宣教者:富田愛世牧師
【エジプト脱出】
 今日の聖書箇所は、いきなり民が不満を口にし、それを聞いた神が憤りをあらわにして、火の裁きを下そうとするところから始まりますが、なぜ、民は不満を口にするのでしょうか。それは感謝を忘れたからではないかと思うのです。ということで、初めに感謝な出来事を振り返ってみていきたいと思います。
 イスラエルの民はエジプトで奴隷生活を送っていました。苦しい奴隷生活の中で、この苦しみから解放してくださいという祈りが神に聞き届けられ、出エジプトという出来事が起こされるわけです。この出来事はヘブライ語聖書の出エジプト記に詳しく記録されています。
 出エジプト記の1章と2章にモーセというイスラエルのリーダーとなる人物の生い立ちが記録されています。次の3章でモーセに対して神からの語りかけがあり、エジプトから脱出するためのリーダーとしての召命を受けるわけです。ただ、モーセはこの神からの召命に素直に答えているわけではありません。自分は相応しくないという理由をいくつか並べ立て、断ろうとするのですが、それらの理由に対して、神は備えを用意していると告げ、モーセは渋々承知したようなのです。
 それからエジプトのファラオに対して、イスラエルの民を解放してほしいと交渉を始めるのですが、なかなか認めてもらえず、最終的には神からの災いがエジプトに降ることによって解放されるのです。出エジプト記11章に最後の災いが記録され、それに伴ってエジプト脱出を記念するための「過ぎ越し祭」と「除酵祭」という二つの記念日が制定されるのです。
 そして、いよいよ12章でエジプト脱出という出来事が起こるのですが、その時、イスラエルの民はある程度の食料とエジプト人からの餞別のような贈り物を受け取ることになるのです。神はただ脱出させるのではなく、こういった細かい備えも用意してくださっていたのです。
 イスラエルの民はエジプトを脱出して、これから荒野をさまよいながら、約束の地カナンを目指すのですが、イスラエルを先導するのは、昼は雲の柱、夜は火の柱として神が先導してくださるのです。

【喉元過ぎれば】
 イスラエルがエジプトを脱出して、最初に出くわす苦難は、エジプト軍の追っ手でした。ちょうど民が葦の海の前で宿営していた時、エジプトの方向から地響きと砂煙が見えてきたのだと思います。それはエジプト軍の追っ手でした。
 それを見て民はパニック状態になりました。目の前には葦の海、後ろからはエジプト軍の追っ手が戦車に乗って迫ってくるのです。絶体絶命です。ところが、その時、民の前で先導していた雲の柱が、民の後ろにつき、エジプト軍と民の間に入りました。14章20節を見ると「真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。」と記録されています。
 神はモーセに「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい」と命じ、一晩中、東風を吹かせて、海の水を分け、葦の海の中に歩ける道が作られたというのです。
 民が渡りきると、エジプト軍も葦の海を渡ろうとするのですが、神はモーセに「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ変えるであろう」と命じ、その通りにすると水が戻って来て、エジプト軍は海に飲み込まれてしまうのです。
 この地域一帯を支配していた、強力なエジプト軍の追っ手を打ち破り、神に護られていることを実感したイスラエルは、神を賛美し、喜びに溢れました。出エジプト記の15章には、その時の喜びの様子が描かれています。
 神の護りを実体験したイスラエルの民でしたが、その喜びは長続きせず、やがて食料がなくなり、不平、不満の声が大きくなってくるのです。自己中心、自分勝手なイスラエルの民ですが、その声に神は答え、マナという食料を与えられるのです。さらに、ウズラの大軍を飛来させ、肉を食べることが出来るように配慮してくださったのです。神の配慮は、至れり尽くせりなのです。
 ところが、この時から約1年経つと、民は神の恵みを忘れてしまうのです。荒野の中で「マナ」が与えられているのに「マナしかない」と不満を口にするようになるのです。今日の箇所では、そのような民に対して神は憤り、火の裁きを下そうとするのですが、神の怒りの火を見た民は、モーセに助けを求めるのです。
 モーセにとってはいい迷惑かもしれません。しかしリーダーとしてのモーセは民のために執り成しの祈りを捧げ、その祈りによって神は思いとどまってくださるのです。

【雑多な他国人】
 この不満について民数記11章4節では「民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った。」とあり、外国人がイスラエルの民をたきつけたかのように記録されています。ここは注意して読まなければならない箇所です。
 なぜなら、ヘブライ語聖書というのはユダヤ教という民族宗教の視点で書かれている問うことが大前提になっているからです。ですから、イスラエルが正しいという立場をとっているのです。イスラエル人は正しいのに、なぜ神に向かって不満を言って、神の怒りを買うのだろうか。それは、外国人がきっかけを作ったからだ、としておけばイスラエル人が悪者にならなくて済むからなのです。
 外国人が不満を言わなければ、イスラエル人もそれにつられて不満を口にすることはなかった。ここでの不満と神の憤りの責任は外国人に取らせればよいのだという流れなのです。
 このような論調は3千数百年前に起こったものではありません。今も世界中で問題となっていることなのです。民族宗教の性質の一つに、人種主義に近い発想があります。この人種主義、レイシズムというものが持っている問題性が極端に発展すると、ウクライナとロシアの問題、イスラエルとパレスチナの問題、そして、アメリカファーストなどという発想につながっていくのです。
 残念なことに、先月の都議会議員選挙から、今回の参議院選挙において、日本国内でも、このレイシズム、人種主義が台頭しています。そして、ネット上の様々なデマやフェイクニュースがレイシストたちによって垂れ流され、まことしやかに拡散されています。
 数年前から問題になっている埼玉県の川口市や蕨市のクルド人問題は事実関係がかなり湾曲されて拡散され、一時期は暴動が起こったなどという嘘が流れていました。また、最近では外国人が生活保護を受けることは憲法違反だなどと騒がれていますが、憲法違反ではありませんし、外国人が生活保護を受けるから日本人が受けられなくなっているなどという事もありません。外国人が特権を持っているとか、優先されることは、まず有り得ないことで、唯一、特権を持っている外国人は在日米軍だけです。

【弱音】
 イスラエルであろうが、雑多な他国人であろうが、現状に慣れてしまえば、もっともっとという欲望が、とめどなく出て来て、不平、不満を訴えるようになるのが、愚かな人間の現実なのかもしれません。
 今日の礼拝では、読みませんでしたが、続きの10節からを見ると、自己中心的で自分勝手なイスラエルの民と神との間に立つのがモーセなのです。最初にお話したように、モーセは神によってリーダーとして立てられてしまったのです。率先してリーダーになったわけではありませんでした。
 しかし、1年間、民と共に荒野を旅している中で、神の偉大な業を見せられ、そのような神によって立てられていることを自覚するようになり、リーダーとしての自覚も芽生えていったのではないかと思うのです。だから10節にあるように、民が泣き言を言っているのを聞いて苦しんだのではないでしょうか。
 この後に続くモーセの言葉には、中間管理職的な苦しさが出ています。見方によっては、モーセともあろう人が、このような泣き言を言ったり、責任を放棄するようなことを言ったりしてはいけないとお叱りを受けるかもしれません。しかし、ここに書かれている言葉は、モーセの正直な気持ちだと思うのです。
 そして、その情けないかもしれませんが、正直な思いを受け止めてくださらない神ではないと思うのです。もしここで、モーセに対して「お前がリーダーなのだから、自分で考えて何とかしろ」と神が言い放ったとしたら、申し訳ありませんが、それは私の信じている神とは違う神だと思います。
 16節以降を見ると、神はモーセの負担を軽くするため、共に働く人々を用意されました。そして、モーセの言葉に耳を傾けようとされるのです。神の前に立つ、私たちの姿勢は、このモーセのようなもので良いのです。カッコつける必要も、毅然とする必要もないのです。ありのままの姿を神に見てもらい、神の助けを求めるなら、神は最善の方法をもって、私たちを助けてくださるのです。

祈 り
賛美歌   新生479 深い罪に悩む時
献 金   
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏