前 奏
招 詞 使徒言行録17章26節
賛美歌 新生 77 恵みふかき 父なる神
開会の祈り
賛美歌 新生519 信仰こそ旅路を
主の祈り
賛美歌 新生506 主と主のことばに
聖 書 民数記23章8~12節
(新共同訳聖書 旧約P254)
宣 教 「主のことば」 宣教者:富田愛世牧師
【その後】
前回は民数記13章をお読みしましたが、そこには出エジプトしたイスラエルの民がカナンの地を目の前にして、その地を偵察したことが記録されていました。偵察した結果、神が約束した通り、乳と蜜の流れる豊かな土地であることは間違いありませんでしたが、そこに住む民は強く、その町は堅固な城壁に守られていたという事でした。
それから、どうなったのかというと、偵察隊の言葉に動揺し、意気消沈したイスラエルの民は、またもやモーセに向かって不平を言い出しました。モーセに向かって不平を言うだけならまだ良かったかもしれませんが、その不平は神に対しても向けられていったのです。
そのような時に偵察隊の中にいた、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブという二人が立ち上がり、神が約束されたカナンの地は、乳と蜜の流れる豊かな土地なのだから、そこに住む住民を恐れてはならない、神は約束を守られるお方なのだから、恐れずカナンに攻め込もうと訴えました。
しかし、恐れの念に取りつかれてしまったイスラエルの民は、二人の訴えに耳を貸そうとせず、反対に彼らを石で打ち殺そうとしたのです。そのような民に対して神は民数記14章11節にあるように「この民は、いつまでわたしを侮るのか」と怒りをあらわにしました。
そして「疫病で彼らを撃つ」とモーセに告げたのです。それに対してモーセは神の怒りをなだめ、この民の罪を赦してくださいと訴えました。このようにイスラエルの民は都合の悪いことが起こると、神に不平と不満の声をあげ、その民の反逆心に対する裁きを神が下そうとすると、モーセが神の怒りをなだめ、罪の許しを乞うというパターンが繰り返されるのです。
14章の続きを読むと、神の計画を信じないで「荒野で我々を滅ぼそうとしている」などと言って、不平や不満の声ばかりあげているイスラエルに対して、あなたたちがそのように思っているならば、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブ以外の者はその通りになるであろうと語るのです。
【荒野にて】
そして、39節を見ると、これらの話しを聞いたイスラエルの民は、短絡的に受け止めて翌朝、勝手に山に上ろうとしたというのです。山に上るというのは、カナン侵入を試みるということを意味しています。
しかし、モーセはこの民の行動を止めようとするのです。なぜなら、そこに神が伴われていないからなのです。神が共にいてくださるなら、不可能も可能になりますが、神が共にいてくださらないなら、成功しないと告げたのです。
イスラエルの民はモーセの言葉に耳を傾けず、自分勝手に行動しカナン侵入を試みました。しかし、神が共におられなかったので、カナン侵入は失敗し、アマレク人とカナン人に打ち負かされてしまうのです。
そして、荒野の放浪が始まります。民数記15章からは、律法の補足的な事柄が記録され、20章ではエドム人の地を通過することの許可を得ようと、エドムの王と面会します。しかし、エドム王は通過することを認めず、仕方なくイスラエルの民は別の道へと迂回することとなるのです。
次の21章から状況は変わります。イスラエルの民がアタリムの道を進んで来ると聞いたアラドの王はイスラエルを迎え撃とうとするのです。アラドの王がイスラエルを迎え撃とうとしたのはイスラエルに対する強い警戒心からだと思うのです。先に偵察隊を送り込んだ時、神は確認のために偵察隊を送ろうとしたのですが、モーセは偵察隊に、文字通り偵察させ、カナンの地を占領しようとしていました。
ところが、ここでイスラエルはアラドの王に対して勝利を収めてしまうのです。次に21節以下を見ると、今度はアモリ人の王シホンに領内を通過させてほしいと願い出るのですが、その願いが聞き入れられず、シホンとの戦いが始まり、その戦いにも勝利してしまうのです。さらに32節ではバシャンの王オグがイスラエルを迎え撃とうと出てきます。そして、バシャンの王オグに対しても勝利するのです。
【バラムとバラク「】
さて、前置きが長くなりましたが、今日の箇所にはバラムとバラクという二人の人物が登場します。この二人は名前が似ているのできちんと覚えた方が良いと思います。
まず、バラムとは誰か、ということですが、民数記22章5節を見ると「ユーフラテス川流域にあるアマウ人の町ペトルに住むベオルの子バラム」と記録されています。このペトルという町はハランに近いので、アブラハムとの関係があるかも知れません。また23章7節を見るとアラムの預言者だと記録されています。そしてアラムというのは、ガリラヤ湖の北に位置し、現代のレバノンとシリアの南部地域に当たります。イスラエルの預言者ではないようなのですが、聖書に書かれている唯一の神に仕える預言者だったようです。
一方、バラクはモアブの王だという事です。モアブというのは死海の東側でアラビアの砂漠までの地域になっています。このバラクという王は、アモリ人の王シホンとバシャンの王オグがイスラエルと戦って敗れたという話を聞き、イスラエルに対して恐れの念を持っていたようです。それで、バラクに呪ってもらいたいと思ったようです。
バラムという預言者は民数記にしか登場しませんが、モアブの王バラクの耳に入るくらい、有名な預言者だったのかも知れません。ただし、バラクがバラムに求めていたのは、神の言葉ではなく、イスラエルを呪う事だったので、バラクという王は預言者の働きを正しく理解していたわけではなさそうなのです。
バラムは正しい預言者だったようで、バラクの要求を受け入れるのではなく、主のことばを伝えると、徹底した態度を示しているのです。現に初めはバラクからの使者に対して、モアブに行くことを神から禁じられたので、断っているのです。それでもバラクは再度バラムの所へ使いを遣わしました。この時は、神が行っても良いと言われたので、ロバに乗ってモアブへと出発しました。途中、ロバがしゃべるという不思議な出来事も起こっています。
バラムはバラクの所に着くと、独特の祭儀を行い、神の言葉を授かり、それをバラクに伝えています。ここでも、バラクの要求に答えることはしませんでした。バラクは呪ってくれと要求していますが、バラムは神が祝福する者を、自分が呪うことなどできないと断っているのです
【祝福と呪い】
ところで、ここには「神の呪い」という言葉が出てきますが、神が呪われるという事があるのでしょうか。聖書を見ると、時々、そういった言葉が登場しますが、聖書全体からの流れで考えると、神は呪いをかけるよりも祝福される神ではないかと思うのです。
この二つの言葉を見てみたいと思いますが、最初に呪いという言葉が出てくるのは創世記3章14節で、ここはアダムとエバが禁断の木の実を食べてしまう箇所で、エバを誘惑した蛇に対して「呪われよ」と語ります。次に出てくるのは3章17節で、アダムに向かって「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」と語られます。
それに対して祝福という言葉は創世記1章22節に、天地創造の5日目、海の魚と空の鳥をつくり、それらを見て良しとされ、祝福して「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ、鳥は地の上に増えよ」と語ります。そして、次の6日目に動物をつくり、人をつくってから同じように良しとされてから、祝福しています。
神の計画の中で、それを実行する者に対して祝福が与えられ、それに反する者は呪われているのです。つまり、神が呪いを与えるという事でなく、反逆するという行為が呪いになるという事なのです。
バラクがイスラエルを呪って欲しいと願ったという事は、神の計画に反することでした。ですから、仮にバラムがイスラエルを呪ったとするならば、その呪いはイスラエルではなく、それを願ったバラクに返ってくるのです。
同じように、神の計画の中でイスラエルを祝福するならば、その祝福は、祝福した者に返ってくるのです。
ただし、イスラエルが祝福されるのは、イスラエルが正しいからとか優れているからではありません。神がイスラエルを選んだのは、小さなものだったから、取るに足りないものだったからなのです。申命記7章7節に「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」とあります。
現代においてイスラエルとは誰なのでしょうか。弱い者、小さくされた者、声をあげることのできない者、参議院選挙で日本人ファーストなどと叫ばれる中で、攻撃された人々なのではないでしょうか。
祈 り
賛美歌 新生526 主よわが主よ
献 金
頌 栄 新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷
後 奏
2025年7月27日 主日礼拝
投稿日 : 2025年7月27日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー