前 奏
招 詞 詩編81編9節
賛美歌 新生 1 聖なる 聖なる 聖なるかな
開会の祈り
賛美歌 新生377 ああ麗しきシオンの朝
主の祈り
賛美歌 新生484 救い主 王は
聖 書 申命記5章1~6節
(新共同訳聖書 旧約P289)
宣 教 「十戒の心」 宣教者:富田愛世牧師
【申命記とは?】
今年は6月から猛暑日が続いていたので、感覚がおかしくなっているように思えますが、今日が8月の第1週目です。以前の感覚だと、これからが夏本番ですが、既に夏本番と言えるような気温の日々が続いているので「やっと8月」という感じがします。
8月という月は、私たちにとって特別な月だと思います。それは「平和」ということが当たり前のことではなく、しっかりと覚えて、守り続けなければ失われてしまうようなものだということを確認する月だと思うのです。
平和を覚える8月に聖書教育では申命記が当てはめられています。そこにどのような意味があるのか、今は分かりませんが、読み進めるうちに、何か関連があるという事に気付けるのかも知れません。
まず初めに申命記全般について見ていきたいと思います。この「申命記」という書名についてですが、ヘブライ語のトーラーでは「言葉の書」という意味のタイトルが付けられているという事です。「ヘブライ語では、○○です」と言えばよいのかも知れませんが、私は正しい発音が出来ないのでやめておきます。また、ヘブライ語の聖書をギリシア語に訳した七十人訳聖書では「第二の律法」という意味のタイトルが付けられていて、英語の聖書は、それに則った訳のタイトルが付けられています。
実は、この英語のタイトルさえ、私には難しい発音で、未だに正確に言う事が出来ません。7月に読んでいた民数記は「ナンバーズ」という簡単な単語でしたが、申命記は「Deuteronomy」。そして、日本語の「申命記」というタイトルは聖書教育誌にもあるように「申ねて命じる」ということから来ているという事です。
内容としては、1章から4章が、出エジプトからの40年の歩みを振り返るモーセの第一の説教、5章から28章が、カナンの地に入る前に神との契約をもう一度確認するための第二の説教、29章から32章が前の契約とは別のモアブの地における契約についての第三の説教、33章から34章がモーセの死という事になっています。
【平和憲法】
ところで、先に言ったように8月は「平和」を覚える月ですが、日本には世界に類を見ない「平和憲法」というものがあります。一部の人々に言わせるならば、戦後の連合国占領下において、GHQによって押し付けられたものだ言われることもありますが、噂やデマ、フェイクニュースに騙されないで正確に憲法の成り立ちについて見ておかなければなりません。
確かに当時の日本はアメリカを中心とした連合国の占領下にありました。しかし、それは完全な占領、完全な支配下にあったわけではありませんでした。議会もあり、行政府も、もちろん制限はありましたが、機能していました。
議会があったという事は、法律を作ることも許されていたわけです。ただし、法律を作る時には制限が設けられていました。それは、戦前のような天皇を国家元首にして、民主主義を否定するようなものは許されなかったという事です。
そのような状況の中で、過去の過ちに対する反省と、その過ちを二度と繰り返してはいけないという思いを込めた法律が作られていました。その根底には、日本人の美徳の一つである謙遜や謙虚さという心持からの思いが溢れていたと考えられています。仏教では、過去の過ちに対しては、後悔するのではなく反省、懺悔すべきだと教えています。
このような思いから「憲法」が作られました。そして、この憲法には「前文」と呼ばれるものがあり、この前文は、単なる序文のようなものではなく、憲法全体の根幹、理念的基盤となっているのです。
憲法前文を読む時間がありませんので、要約するなら、主権在民、恒久平和の理念、国際協調、普遍的人権の確認という事が書かれています。過去の過ちを反省して、戦争を放棄して平和を目指す、国民が主権を持ち、専制と隷属、圧迫と偏狭を認めない、全世界の国民が恐怖と欠乏から解放され、平和的に生きる、自国ファーストではなく、他国を認め共存していくという事です。
このような素晴らしい理想を掲げて作られたのが、日本国憲法なのです。なぜこのような話をしたかというと、平和の月だからという理由と、もう一つは、モーセが神から与えられた十戒にも、同じような前文があるからなのです。
【十戒前文】
今日テキストとして与えられた申命記5章6節が十戒の前文に当たる箇所だと思うのです。日本国憲法では国民主権ということが大前提となっていますが、十戒においては、神が主権者なのです。
6節の前半を見ると「わたしは主、あなたの神」と書かれています。この「主」という言葉はヘブライ語で神聖四文字と呼ばれる文字が使われていて、当時の人々は「主の名をみだりに唱えてはならない」という十戒の言葉を厳密に守ったことによって、神の名を表わす文字に対して、正確に発音すると十戒の禁止事項に当たるので便宜上「アドナイ」と発音したそうです。
このような神がイスラエルという、エジプトで奴隷生活を送っていた、弱小集団に対して契約を結ばれると宣言しているのです。「わたしは主、あなたの神」ということは、神の方から、わたしがあなたたちの神になると宣言しているのです。そして、この十戒は、神の民に与えられるものだというのです。
そのように考えるなら、十戒を守ることによって、神の救いを得るとか、神の民になることが出来るということではないようなのです。すでに神の側から一方的に「わたしは主、あなたの神」つまり、あなたは神の民である、だから、あなたに十戒を与えるという事なのです。
つまり、神のために守るべき決まりではないのです。神の民として、神が選ばれた民に対して、こうしなさい、ああしなさいと言っているのではなく、私が選んだあなたたちなのだから、こうなのです、ああなのですと言って確認しているのです。そして、この前文を理解し、これを大前提とするならば十戒の読み方が変わってくるのです。
【神の計画】
このようにイスラエルという集団を、御自分の民とされた神とは、どのようなお方なのでしょうか。それは6節の続きを見ると分かるのです。そこには「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と書かれています。
つまり、この事が神の計画なのです。教会で使われるクリスチャン用語でいうなら「神の御心」「神のみ旨」なのです。余談ですが、私は「神の御心」とか「神のみ旨」という言葉をできるだけ使わないようにしています。なぜなら、クリスチャンではない一般の人にとっては理解しにくい言葉だからです。ですから、神の計画という言い方をしています。
神の計画は、私たちを奴隷から解放することなのです。しかし、そんなことを言われても、私は奴隷ではありません。と思う方が多いのではないかと思います。確かにここにいる皆さんは、誰も奴隷ではなく自由人です。
しかし、心の中はどうなのでしょうか。人の心の中などというものは他人には計り知れないものです。自分にしか分からないものです。もしかすると自分でもよく分からないものかもしれません。
自分でもよく分からないという時、なぜ、自分でも分からないのでしょうか。それはたぶん、自分で自分の思いに何らかの規制をかけているからではないでしょうか。何かによって自分の心を縛り付けているのです。
パウロはローマの信徒への手紙7章19節、20節で「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」と語っています。多くの人は「私もそうだ」と共感するのではないでしょうか。
人には良心というものが備わっています。この良心によって善を行いたいと願うことがあるのです。しかし、同時に私たちの中にある罪が、悪を行うようにいざなうのです。
そのような罪の奴隷になってしまうことがあるのです。ですから、神はそのような罪の奴隷から、私たちを解放したいと願っているのです。十戒の前文には、そのような神の思いが込められているのです。そして、十戒は神の民に与えられる、恵みの戒めなのです。
祈 り
賛美歌 新生543 千歳の岩よ
主の晩餐
献 金
頌 栄 新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷
後 奏
2025年8月3日 主日礼拝
投稿日 : 2025年8月3日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー