前 奏
招 詞   ヨハネによる福音書15章16節
賛美歌   新生  1 聖なる 聖なる 聖なるかな
開会の祈り
賛美歌   新生 61 さわやかな朝となり
主の祈り
賛美歌   新生515 静けき河の岸辺を
聖 書   申命記7章6~8節
                     (新共同訳聖書 旧約P292)
聖歌隊   平和の祈り
宣 教   「弱さゆえ」    宣教者:富田愛世牧師
【平和を覚える日】
 今日は平和を覚える日の礼拝です。私たちは日ごろから「平和」ということを意識しているでしょうか。もしかすると、改めて言われなければ、意識しないものなのかもしれません。そのような姿勢を「平和ボケ」と言って揶揄することがありますが、私は「平和ボケ」の状態、普段の生活で平和を意識しないことこそが、平和なのではないかと思うのです。
 ですから「平和ボケ」というのは感謝すべき状態だと思います。とは言え、現実の世界を見ると「平和ボケ」ではいられない現実があります。ですから、改めて「平和」を意識する時を作らなければならないのだと思うのです。
 それでは、この「平和」とは何なのでしょうか。平和とはこういう事ですと一言で答えを出すことのできるものではありません。多様な側面を持っているので、その代表的なものを見ていきたいと思います。
 まずは個人にとっての平和、それは心の中に恐れや不安がない状態だと考えられています。次に一般的な平和として、消極的な平和と積極的な平和という考え方があります。これについては、ノルウェーの国際政治学者、ヨハン・ガルトゥングが、消極的な平和は戦争や暴力の無い状態で、積極的な平和は人間が尊厳をもって生きられる状態だと定義づけています。また、社会・国家的立場から考えるなら、国家間の争いがないこと、法と秩序が守られていることです。そして、世界的視点に立つなら、軍縮や国際協調という事があげられます。
 平和ということを考える時、その対義語が何かを考えることも大切になります。一般的には、戦争、争い、不和と考えられ、心の状態に対しては、不安、恐れ、緊張、混沌などがあげられます。社会、人間関係においては、対立、憎悪、差別、暴力、不正などがあげられます。
 この対義語と位置付けられている争い、恐れ、緊張、不安などの原因の一つに「弱肉強食」というものがあります。自然界の定理だと言われていますが、仏教思想に起源があります。これが近代思想の中で「生存競争」や「適者生存」と誤解されるようになったようです。そして、自然界を見ると「弱肉強食」だけでなく、それぞれの種による協力や共生もあるのです。また、何が強者なのかについても様々な見方があるのも事実です。

【聖なる民】
 このような平和という事が、今日の聖書とどのように関係しているのでしょうか。今日はその辺を見ていきたいと思っています。そして、そこには私たちが「当たり前」と思っているような偏った常識から解放されなければならないという、聖書のメッセージが込められていると思うのです。
 前回もお話したように、申命記は「言葉の書」と呼ばれていて、文字として書かれている言葉と同時に、その行間に込められている「思い」をくみ取っていかなければなりません。そして、その根底には「わたしは主、あなたの神」という神の宣言が流れているということを忘れてはいけないのです。
 6節を見ると「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である」と語られています。ここにある「聖なる民」とはどういうことなのでしょうか。「聖」という文字が付くと、何となく世俗的なものではない、神聖なものをイメージすることが多いのではないかと思います。しかし、聖書の中で用いられる「聖」という言葉には、そのような神聖視されるような意味は含まれていません。
 長く教会に通っている人は「聖」という言葉の意味を何度も聞いていると思いますが、今日も繰り返し説明します。「聖」とは、区別される、分けられるという意味の言葉なのです。なぜ、何度も繰り返すかというと、意識して受け止めなければ、何となく、神聖なものというイメージに逆戻りしてしまうからなのです。
 イスラエルの民は、神の目に特別な存在でした。しかし、それは神聖なものではありません。また、特別だからと言って、何かが優れているという事でもありません。次の7節にあるように「あなたたちは他のどの民よりも貧弱」だったからなのです。
 神がイスラエルを選ばれたのは、この聖書が示しているように、何かが優れていたとか、神に喜ばれることをしたとか、そういうことではありません。反対に、どの民よりも貧弱だった、つまり、役に立たない民だったという事なのです。
 他の民族から評価されることもなく、神の役に立つ、大きな業績を残したとか、そのようなことは何もなかったのです。にもかかわらず、選ばれてしまった。そこには私たちには計り知ることのできない、神の大きな計画があったのです。

【宝の民】
 そして、続きを見る「御自分の宝の民とされた」とあるのです。イスラエルの民は、神にとって宝のように大切なものだというのです。
 しかし、聖書に書かれているように、イスラエルの民は大きな集団ではなく、何かに優れた優秀な民でもありませんでした。「他のどの民よりも貧弱であった」というのです。もしかすると、神が選んで助けなければ、滅びてしまうような存在だったのかも知れません。
 そのような民に向かって「宝の民」と宣言する神は、私たちの常識とはかけ離れた存在なのではないかと思うのです。
 皆さんにとって、宝物とは何ですか。このような質問をすると、そこにいる人の年齢層や性別で大きく変わってくるのではないかと思います。しかし、一般論的に考えるなら、自分にとって価値のあるものが宝となるのではないかと思うのです。自分にとって価値のあるものですから、自分の価値観にあったものが宝となるという事です。
 そう考えるなら、神の価値観と私たち人間の価値観は根本的に違うものなのではないかと思わされるのです。最近は価値観の多様性という事が言われるようになったので、一概には言えないかも知れませんが、一時代前までの私たちの価値観の中では、弱小集団より、大きな集団の方が勝っていると考えるのが普通だったと思います。役に立たない人よりも役に立つ人の方が重要視されていたと思います。
 しかし、神が宝と見なすのは、弱小なもの、役に立たないものなのです。つまり、弱者救済という事が、その根底にあるという事なのです。初めにお話したように、人間社会は弱肉強食の社会です。もちろん、その中にあっても人道的な感覚を持った一部の人々によって、助け合いという思想も存在します。
 しかし、基本的には弱肉強食という自然の定理の中に、人間社会も存在すると考えられているのです。だからこそ、神はイスラエルを選び、すべての民の救いのために用いられようとしたのではないでしょうか。

【神の計画】
 この聖書の記事に身を置くならば、今、イスラエルの民はカナンの地を目の前にしているのです。そして、これからカナンの地に入ろうとしているのです。どのようにしてカナンの地に入ろうとしているのでしょうか。
 民数記13章を読んだ時、神がカナンの地を偵察するように命じたのは「乳と蜜の流れる地」であることを確認するためだったと語りました。しかし、モーセは偵察隊に対して「カナンの民は強いか、町に城壁があるか」と軍事的な視点で偵察するように命じました。このモーセの指示は、神の思いとは違っていたと思うのです。
 神は暴力を用いてカナンの地に侵入するのではなく、別の方法でイスラエルの民をカナンの地に入れようとしていたと思いたいのです。ですから、この申命記7章で、イスラエルを選んだのは「他のどの民よりも貧弱」だったからだとはっきり伝え、そのように「貧弱」な民がカナンに入るための方法を神に聞けと命じているのではないかと思うのです。
 申命記5章では、カナンに入るための心構えとして、十戒を再確認させています。なぜでしょうか。神の前に謙虚になって、神の声を聴くことを求めていたのではないでしょうか。
 そして、今日の箇所、8節の後半にあるように「エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」と語られる背景には、軍事力を誇っていたエジプトからの解放。つまり、軍事力によって他者を支配するという愚かな行為から解放される必要を語っているのです。
 弱肉強食が自然界の定理だと考えられていると言いましたが、誰が強者で、誰が弱者なのでしょうか。生態ピラミッドの頂点に立つ捕食者が強者で、捕食される生き物が弱者なのでしょうか。必ずしも、そうだとは言い切れません。
 また、自然界を見ると弱肉強食という生態ピラミッドだけで成り立っているわけではなく、同じ種同士であったり、違う種同士であったりで、協力していることも、共生していることもあるのです。
 人間も自分たちファーストということではなく、誰かと共に協力することや共生していくことによって、生活や文化が豊かになって来たということを経験しているのです。そのことを思い出していくなら、そこに小さな平和が訪れるのではないでしょうか。私たちは「宝の民」だからこそ、それが可能になるのではないでしょうか。

祈 り
賛美歌   新生347 わたしは力あたえ
献 金   
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏