前 奏
招 詞   ヨハネによる福音書1章14節
賛美歌   新生  1 聖なる 聖なる 聖なるかな
開会の祈り
賛美歌   新生330 み使いの歌はひびけり
主の祈り
賛美歌   新生281 み座にいます小羊おば
聖 書   申命記30章11~14節
                      (新共同訳聖書 旧約P329)
宣 教   「灯台下暗し」    宣教者:富田愛世牧師
【西遊記】
 唐突ですが、中国の古典文学を知っていますかと質問された時、どのようなものを思い浮かべますか。なぜ、このような質問をしたかというと、今日の聖書箇所を読んだ時、最初に思い浮かべたのが西遊記でした。そこから西遊記を調べたところ「中国の四大奇書」と呼ばれる古典の一つだという事でした。
 ちなみに「四大奇書」とは、世に稀に見るほど卓越した四つの作品という意味だという事で、それらは「西遊記」「水滸伝」「三国志」「金瓶梅」の四つだという事でした。「西遊記」「水滸伝」「三国志」はよく知っているのですが「金瓶梅」は今回初めて知りました。これは、水滸伝のスピンオフ作品のようなものだそうです。
 話しが少しそれてしまいましたが、西遊記は、多くの人に親しまれた冒険物語です。私の年代にとっては、堺正章が孫悟空役を演じ、夏目雅子が三蔵法師役を演じた、ドラマが印象深く残っています。また、ドリフターズがそれぞれの声を演じたテレビ人形劇もありました。
 内容としては、孫悟空、猪八戒、沙悟浄が三蔵法師に仕え、天竺、今のインドまで経典を取りに行くという、長い旅を描いています。この旅は簡単な旅ではなく、妖怪との戦い、幾多の試練、数え切れない困難が待ち受けていて、それらを乗り越えていくというものでした。
 この旅に込められた思いというのは、人間が真理に至るためには、長い旅と苦しい修行が必要だという思想、つまり、仏教的な思想が、この物語には込められていたわけです。
 このような物語を読むとき、私たちも「本当の知恵や救いを得るためには、遠い場所に出かけ、困難を乗り越えなければならないのではないか」と考えがちです。12、13節を見ると「それは天にあるものではないから、『だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、『だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。」とあります。天に登るような高みや、海のかなたの果てしない場所に本当の知恵や救いがあるのではないか考えるのです。

【あなたの近くに】
 ところが、聖書はそのような私たちの常識的な考えを否定して、驚くべきことを語ります。神の御言葉、つまり、本当の知恵と救いは、そんな遠いところにあるのではないと語るのです。
 11節をもう一度、読んでみたいと思います。「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは、難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。」と語っているのです。
 神が私たちに与えてくださった戒め、つまり、十戒は難しすぎるものではないというのです。どうでしょうか。皆さんは十戒を難しいと感じますか、それとも難しくないと感じますか。
 マタイによる福音書19章16節以降に、金持ちの青年の話が記録されています。一人の青年がイエスのところに来て「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょう」と尋ねます。イエスが十戒を守りなさいと答えると、その人は「守ってきました」と答えました。その答えに対してイエスは「持ち物を売り払い、天に宝を積みなさい」と言うと、その青年は悲しみながら立ち去ったとあります。
 十戒を表面的に読むだけなら「守っている」と感じるかもしれませんが、イエスの視点、また、内面的なこととして受け止めるなら、かなり厳しいものになるのかも知れません。しかし、神は難しすぎるものではないと語るのです。
 また、遠く及ばないものでもないというのです。西遊記のように、遥かなる旅に出て、ようやく手に入れるものではないというのです。御言葉を得るために、だれかが天に登って持って来てくれる必要はない。海のかなたに渡って取って来てもらう必要もないというのです。
 もし神の言葉が遠い世界の彼方にしか存在しないのであれば、それを手に入れるのは超人的な力を持った者か、特別に選ばれた者、つまり、スーパーマンのようなヒーローがいなければならないという事になるのです。そして、人間はそれを手に入れたいと、あの手この手と考え、行動しようとするのですが、最終的には、手の届かないものとして、諦めざるを得ないのです。

【あなたの口と心に】
 けれども、14節を見ると「あなたの近くにある」と語るのです。もう一度14節を読んでみましょう。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」
 ここでモーセは、御言葉の本質を示しています。御言葉は天でもなく、海のかなたでもなく、すでに人間の内に届いているのです。口にあり、心にある。つまり、御言葉はすでに語られ、聞かれ、理解され、受け入れることができるところまで来ているのです。
 西遊記に描かれる「外への果てしない旅」とは対照的に、聖書が示すのは「内なる旅」なのです。遠い場所へと旅して取りに行く必要はなく、神の言葉はすでに人の心に触れています。それを信じ、受け入れ、実行に移すことこそが真理への道なのです。
 先ほど十戒を守るのは難しいでしょうか、難しくないでしょうかと質問しましたが、具体的な言葉として、後半にある父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。これらは6つの戒めは、常識的に生活していれば守ることが出来ると思う方が多いと思います。
 確かに、表面的に捉えるならばその通りです。しかし、イエスはマタイによる福音書5章27節以降で、もし情欲を抱いて女の人を見るなら、その人は心の中で姦淫を犯していると語っています。
 同じことが、父と母を敬え。殺してはならない。盗んではならない。偽証してはならない。欲しがってはならないという戒めにも共通するのではないでしょうか。現に殺人という事について言えば、身体的に殺さなくても、言葉によって相手の心を殺してしまうことがあります。殺さないまでも、深く傷付けてしまうことがあるのです。
 そのように受け止めるなら、誰ひとりとして十戒を守っていますなどとは言えなくなってしまいます。生きるという事は、自己卑下し続け、ただただ、辛いだけのものになってしまうのかも知れません。

【灯台下暗し】
 西遊記の三蔵法師たちは、長い年月をかけ、様々な苦難を乗り越えることによって、人間的に成長し、教典を手に入れるのに、相応しい人格者となり、天竺にたどり着き、経典を手に入れました。物語としては感動的ですが、聖書の神はスーパーマンや聖人になることを勧めているのではありません。
 どこにでもいる、普通の人、ありのままの人間に対して、驚くべき恵みを与えてくださると約束しているのです。私たちは遠い天や海を目指す必要はなく、神の言葉はすでに「今、ここ」にあると語るのです。
 では、わたしたちに求められているのは何でしょうか。信仰とは特別な修行を積んだ一部の人間だけが得るものではありません。神の御言葉が示しているのは救い主としてのイエスなのです。そして、このイエスの語った福音によって、私は生かされているということを信じるなら、赦されるのです。
 つまり、すでに身近に与えられている御言葉を、信じて受け入れ、実行することです。難しすぎる課題をこなすことではなく、心に触れている御言葉に素直に従うことなのです。
 パウロはローマの信徒への手紙10章8節でこの箇所を引用し「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」と語ります。そして「口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させたと信じるなら、救われる」と続けるのです。
 つまり、モーセが語った「御言葉は近くにある」という真理は、イエス・キリストを通してさらに明確にされました。救いは遠くにあるのではなく、すでに近くにある、という福音の真理が、この時、すでに示されていたのです。
 西遊記の旅のように何千里も歩かなくても、御言葉はすでにここにあり、あなたの心に触れています。だからこそ、神は「それを行うことができる」と語られるのです。

祈 り
賛美歌   新生423 主よ お語りください
献 金   
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏