前 奏
招 詞   フィリピの信徒への手紙2章1~2節
賛美歌   新生  1 聖なる 聖なる 聖なるかな
開会の祈り
賛美歌   新生292 安かれわが心よ
主の祈り
賛美歌   新生384 語り伝えよ 神のみ言葉
聖 書   申命記34章1~12節
                     (新共同訳聖書 旧約P338)
宣 教   「世代交代」    宣教者:富田愛世牧師
【モーセの死】
 今日で申命記が終わりになりますが、7月に民数記を読み、8月に申命記を読むという事になって、もしかすると苦難の二ヶ月だったかもしれません。民数記も申命記も書名は知っているけれど、内容まではよく分からないという、代表的なものだったのではないかと思います。7月に民数記を読み始めた時「つまらない、退屈というレッテルが貼られている民数記ですから、何とか面白そうな切り口で、読んでいきたいと考えています。」と言いました。
 私なりに工夫したつもりでしたが、どうだったでしょうか。ただ、私にとっては非常に恵まれた時でした。正直なところ、テキストとして与えられている聖書箇所の意味や解釈をするために釈義という作業をするのですが、今まで以上の時間を使わなければなりませんでした。毎回、日曜日に間に合うかと焦っていました。準備のためには大変な思いをしましたが、それ以上に、聖書が語りかけてくる言葉に感動し続けていました。
 その思いが伝わったか、非常に不安ですが、トーラー、律法書という堅苦しいイメージのメッセージにはならなかったのではないかと思っています。さらに、聖書という書物は、読めば読むだけ興味深く、面白い書物だと、改めて感じさせられました。
 さて、今日の聖書箇所はモーセの最後を描く、厳粛な場面が記録されています。イスラエルの民をエジプトから導き出し、神から十戒が与えられ、民の不平や不満と神の怒りの板挟みになりながらも、道なき荒野をさまよい、40年に渡って民を導いた偉大な指導者でした。そのモーセがついにピスガの頂に上り、約束の地、カナンを見渡し、ついには息を引き取るのです。
 モーセは、約束の地に入ることが許されませんでした。その地を「見る」ことは出来ても「入る」ことが出来ない、この不思議な結末は、歴史の転換点であると同時に世代交代の象徴でもあったのです。モーセの時代はここで終わり、新しい指導者ヨシュアの時代が始まるのです。
 ここには、一人の人間の生涯には終わりがあるけれど、神の計画は、世代を超えて受け継がれていくという大きな計画が示されているのです。

【見て、託す】
 もう一度1節を見ると、モーセはピスガの山頂からカナンの地を見渡したとあります。ピスガの頂というのは、標高700m程度の山だという事です。しかし、死海が海抜マイナス400m位なので、その差で1000m以上の山と同じ感覚になるのだと思います。そして、そこからはヨルダン川流域、パレスチナの山地が見渡せるという事です。
 カナンの地を見渡しながら、きっとモーセはそこに入りたかったと思うのです。モーセが思うだけでなく、イスラエルの民も当たり前のように、モーセが先導してカナンの地に入るものだと思っていたはずです。しかし、そこに足を踏み入れることが出来たのは、モーセではありませんでした。また、モーセと共に荒野の40年を苦労して歩んだ、第一世代でもありませんでした。そこに入ったのは、荒野で産まれた次の世代だったのです。
 ただ、人間は欲深い存在なので、見てしまったら、そこに行きたくなったり、それが欲しくなったりするのです。あなたの役割はここまでで、そこに入るのは次の世代ですよ、などと言うのは簡単ですが、それを受け入れるのは非常に難しいことだと思います。
 しかし、この事実こそが、世代交代という現実なのです。どれだけ有能な、優れた指導者であったとしても、すべてを自分の手で完成させることは出来ないという現実を語っているのです。その道半ばで役割を終え、後を託さなければならないことがあるのです。
 私たちの人生においても、同じことがあるのではないでしょうか。親が子に、教師が生徒に、牧師が次の働き手に、企業のトップ、リーダーが後継者に、バトンを渡さなければならない時がやってくるのです。
 もちろん例外的なこともあります。一代で築いた事業を成功させる人はたくさんいます。しかし、その事業が、その先長く続くかどうかは、世代交代が上手くできるかどうかにかかってくるのです。その時、大切なのは「自分で完成を見る」ということではなく、次の世代が完成へと進められるように「託す」ことなのです。
 モーセは、まさにその役割を担っていたのです。モーセに与えられた働き、使命は、約束の地に入ることではなく、民をそこに「導く」ことだったのです。

【継続していく働き】
 モーセは120歳まで生き、視力も衰えず、気力も失われなかったと記されています。創世記に登場する「族長」たちに比べると「まだ120歳」という感じですが、族長たちが実際に何百歳まで生きたという事が事実かどうかは置いておき、それらの数字は神の祝福を表わす象徴的なものだったと私は考えています。
 それに対して、モーセの年齢は現実的な年齢ではないかと思うのです。人間の肉体は様々な細胞が集まって造られています。一つひとつの細胞には寿命があり、一つの細胞が死ぬと新しい細胞が誕生するという、新陳代謝が繰り返されるわけです。つまり世代交代しながら、日々新しくされていくのが人間の肉体です。
 それぞれの細胞は新陳代謝できる回数が決まっていると聞いたことがあります。そして、その限界が120年位だという事でした。一つひとつの細胞が健康な状態で新陳代謝を繰り返した時、人間の寿命は最長120年位だというのです。
 ですから、モーセは寿命を全うしたという事なのです。そして、この全うしたという事は、限界が来たということではなく「目はかすまず、活力もうせていない」ということですから、まだまだ働ける状態だったのです、ここに「人の生涯には限界がある」という現実と同時に、「神の働きはひとりの人間の生涯を超えて続く」という真理があるのです。
 モーセの死はイスラエルにとって大きな悲しみでした。民は30日の間、モーセの死を悼み、喪に服したのです。しかし神の計画はそこで止まったわけではありません。すぐにヨシュアという次の指導者が立てられ、新しい時代が始まりました。
 ここで重要なのは、「神の御業は一人の人物に依存しない」ということです。私たちは時に、あるリーダーや人物がいなくなったら物事は立ち行かないのではないか、と不安になります。しかし、神の計画は常に世代を超えて流れ続けます。モーセの死も、神の御手の中で「次の世代への移行」として位置づけられていたのです。
 これは、私たちが「自分の代で全てをやり遂げなければならない」という焦りから解放されるメッセージでもあります。神の働きは私たち一人で完結するものではありません。私たちは神の計画の一部分を担い、次へとつなぐ一人なのです。

【世代交代】
 次の時代の指導者として立てられたヨシュアについては、次回からヨシュア記を読む中で詳しく説明していきたいと思いますが、ここでもう一度確認しておかなければならないことは「新しい世代には新しいリーダーが与えられる」ということです。ヨシュアはモーセとは異なるスタイルで民を導きました。世代が変われば指導の仕方も変わります。けれども、変わらないのは「神の約束」と「神の導き」なのです。
 10節を見ると「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった」と書かれています。これはモーセの偉大さをたたえる言葉であると同時に、次の時代に来られるメシアを想起させる言葉でもあるのです。モーセのような預言者は現れなかったと言いながらも、カナンに定住してから王国を作り上げ、大きな繁栄を経験します。その間、たくさんの預言者が現われ、イスラエルの歩むべき道を示し続けました。
 しかし、イスラエルがたどった道は、預言者たちが示した道ではなく、神に背く道でした。その結果として、イスラエルは自らの罪によって滅んでしまうのです。
 イスラエルという民族国家は滅びました。しかし、神は次の時代として、民族的な限定から解放した、新しいイスラエルを造られたのです。それは、やがて来られる「真の預言者」「究極の大祭司」であるイエス・キリストを指し示しているのです。
 ヘブライ人への手紙3章2節以降にこう記録されています。「モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。」
 モーセは唯一無二の指導者でした。しかし、モーセ以上の偉大な預言者、アロン以上の大祭司として、イエスが遣わされることを聖書は示しているのです。

祈 り
賛美歌   新生430 しずけき祈りの
献 金   
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏