前 奏
招 詞 ローマの信徒への手紙11章29節
賛美歌 新生 2 来れ全能の主
開会の祈り
賛美歌 新生363 キリスト 教会の主よ
主の祈り
賛美歌 新生415 わが主よ ここに集い
聖 書 ヨシュア記1章1~9節
(新共同訳聖書 旧約P340)
宣 教 「与えられる勇気」 宣教者:富田愛世牧師
【ヨシュア記】
今日からヨシュア記を読み始めますが、最初にヨシュア記とは、どのような書物なのかを確認しておきたいと思います。民数記の時にも少し触れましたが、ヘブライ語聖書の位置付けはキリスト教とユダヤ教では少し違っていて、キリスト教では歴史書として位置づけられていますが、ユダヤ教では前の預言者という位置付けになっています。
いずれにしても、申命記までの五書、トーラーとは一線を画すものとなっています。ただ、歴史的な流れとしての繋がりはあります。また、歴史的なつながりという事で見るならば、ヨシュア記の次に置かれている士師記という文書がありますが、士師記の前半1章から2章9節まではヨシュアの死後という事で展開され、士師記2章8節には「主の僕、ヌンの子ヨシュアは百十歳の生涯を閉じ」と書かれ、ヨシュアの最後を記録しています。
ヨシュア記の全体的なテーマとしては、カナンの地の占領と十二部族への分配という事だと言われてきました。しかし、現代に至るまでのパレスチナ問題という視点に立って考えるなら、そのような土地の奪い合いが神の計画なのかという疑問を持ってしまいます。
今回、Y先生が聖書教育誌で、もう一つの視点について書かれているように感じます。それは申命記から続いている大きなテーマである、神のみ言葉に聞き従うという事なのです。
この意見に私も賛成するのです。民数記と申命記を続けて読んできた時、民数記13章でカナン偵察の記録がありました。その時、神の命令はカナンの地が乳と蜜の流れる豊かな地であることを確認することだったにもかかわらず、モーセはその地に住む人々が強いか、町は城壁に囲まれているかといった軍事的な視点で見てくるように命じました。
神は武力によってカナンの地を手に入れるように計画していたのではないように思えるのです。何か分かりませんが、他の方法でカナンの地に入ることを計画していたのではないかと思うのです。その流れから考えるなら、やはり、ヨシュア記のテーマは神のみ言葉に聞き従うという事だと思わされるのです。
【あなたを見捨てない】
「神のみ言葉に聞き従う」という事はヨシュア記のテーマであると同時に、私たちキリストを信じるクリスチャンにとっても大前提となるものだと思います。ですから、このテーマでヨシュア記を読み進めることには何も問題はないはずです。
それでは、もう一度、1節を読んでみます。「主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた」とあります。イスラエルの民をエジプトから導き出したモーセは、神の約束の地、カナンの地を目の前にして、死にました。
神はモーセの後継者としてヨシュアを立てましたが、偉大な指導者の後を継ぐという事で、ヨシュア自身も不安があったのではないかと想像しますし、ヨシュアに従うイスラエルの民の中にも同じような不安があったのではないかと想像します。
しかし、今読んだ1節に「主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた」とあるように、神の言葉はモーセだけではなく、ヨシュアにも臨んでいるのです。そして、これから為すべきことを伝える中で、とても重要なことを語っているのです。
それは5節の後半にあるように「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることのない」と宣言してくださるのです。「あなたと共にいる」という言葉に聞き覚えがあるはずです。
神は創世記の中で、アブラハム、イサク、ヤコブと言った族長たちに向かって、何か大きな決断を迫る時、必ず「あなたと共にいる」と宣言し、励ましてくださっていたのです。ここでも同じようにヨシュアに向かって「共にいる」と宣言し、励ましてくださるのです。さらに「見放すことも、見捨てることのない」と具体的に語りかけているのです。
このように具体的な言葉を用いることによって、神の言葉とその働きというものが身近なものとして、感じられたのではないでしょうか。
【強く、雄々しくあれ】
ところで、ヨシュアがモーセの後継者となった時、何歳くらいだったと思われますか。私は以前、ヨシュアについて語った時「若いヨシュアは」というように語ったことがありました。
先ほどの民数記13章で12人の偵察隊が選ばれていますが、偵察隊なので、何となく若者かなと思ったのですが、よく読むと13章3節に「彼らは皆、イスラエルの人々の長である人々であった」と記録されているのです。「長」となる人という事ですから40歳から50歳くらいの人々だったと考えられます。
また、ヨシュア記14章7節によると、カレブはカナン偵察の時は「40歳」でした。そして10節を見ると、それから「45年」経ち、入国時は「85歳」でした。とするならば、ヨシュアとカレブは同じくらいの年齢でしたから、この時、ヨシュアも85歳くらいだったと考えて構わないと思います。
それなりの年齢ですから、人々からの信頼がなかったわけではないと思います。しかし、偉大な指導者であるモーセの後ですから、ヨシュア自身には気おくれがあったのかも知れません。そのようなヨシュアに対して神は「強く、雄々しくあれ」と命じられるのです。
この「強く、雄々しくあれ」という言葉を私たちはどのように受け止めるでしょうか。何となく「ガンバレ」とおしりを叩かれているような感じがしないでしょうか。しかし、この時のイスラエルの置かれている状況を想像してみてください。
申命記2章を見るなら、ヨルダン川の東側にあるヘシュボンの王アモリ人シホンとの戦いに勝利しているのです。さらに3章ではバシャンの王オグとの戦いにも勝利しているのです。つまり、ガリラヤ湖から死海までのヨルダン川の東側全域を占領しているのです。
イスラエルの民は戦いに勝利し、ノリに乗っているような状態だったと思われるのです。そう考えるなら「強く、雄々しくあれ」という言葉は軍事的に鼓舞するような言葉ではなく、ヨシュア記のテーマである、神の言葉に聞き従う事への励ましの言葉だったという事なのです。
【あなたの足の踏むところ】
ここで語られる神の言葉とは、モーセによって与えられた律法、具体的には十戒を指しています。当時の人々が十戒をどのように受け止めていたのかは、分かりませんが、現代において私たちは十戒を誤解し、そのことによって臆病になってしまうことがないでしょうか。
十戒の言葉尻だけを取るなら、第一戒の「ほかに神があってはならない」から始まって第十戒の「隣人のものを欲してはならない」まで、すべて「~してはならない」となっています。ですから多くの人は十戒とは禁止事項が書かれていると思っているのです。
しかし、ヘブライ語の文法的な特徴から解釈するなら、必ずしも禁止事項とはならないようなのです。原語は否定詞に未完了形の付いた形で「~しないだろう」と訳すことのできる言葉だという事です。
第六戒の「殺してはならない」を例にとるなら「君は殺しはしないだろう」となり、現実には殺しという行為をする可能性は残されますが、理念的にはそれを否定しているのです。現実に目を向ければ「殺してはならない」という禁止命令になりますが、理念としては「殺すことなど有り得ない」という不可能性の断定となるようです。
ヘブライ語には、このような表現方法があるので、注意しなければならないと思うのです。そして、自分の事として考えるなら、罪深い存在であるにも関わらず、神に愛された者として、私を信頼してくださっているという事に気付かされるのです。そうすると、そのような神に答えたいという思いが与えられるようになるのではないでしょうか。
神の信頼に答えようとする時、感謝をもって「大胆に行う」勇気が与えられるのです。神が私を信頼してくださっているのだから、私も神を信頼し、一歩踏み出さなければならないと思えてくるのです。さらに、その神は共にいると約束してくださるのです。
祈 り
賛美歌 新生578 光と闇とが
主の晩餐
献 金
頌 栄 新生672 ものみなたたえよ
祝 祷
後 奏