前 奏
招 詞 ヨハネの黙示録2章19節
賛美歌 新生 2 来れ全能の主
開会の祈り
賛美歌 新生378 海よりも深い主の愛
主の祈り
賛美歌 新生389 昔主イエスの蒔きたまいし
聖 書 ヨシュア記3章1~17節
(新共同訳聖書 旧約P342)
宣 教 「ミッションインポッシブル」 宣教者:富田愛世牧師
【不可能な状況】
今日の聖書箇所は、いよいよカナンの地に足を踏み入れるという場面ですが、カナンの地を目の前にしたイスラエルの前には困難な状況がありました。その一つがヨルダン川です。
私はイスラエル旅行をした事がないので、実際のヨルダン川を見たことがありませんが、様々な記録フィルムや写真で見たことがあります。それほど大きな川ではないという印象があったのですが、何千年も前の当時の状況は少し違っていたようです。
当時のヨルダン川は現代のように飲料水や農業用水として取水するような設備がありませんでしたから、上流のヘルモン山からの雪解け水で水量豊かな川だったようです。エリコ付近では平均流量は1秒あたり約300~500㎥と現在の10倍以上あったようです。川幅は30~40m以上、水深は3~5mあったようです。
15節を見ると「春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていた」とあるので、この時期の川幅は100mを超えるほどあり、人間が歩いて渡るなどと言う事は、考えられない状況だったのではないかと思います。
ヨシュアをリーダーとしたイスラエルはどうしたのでしょうか。聖書にはヨシュアが川を目の前にして戸惑っていたという記述はありません。3節にはイスラエルの民に向かって「主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け」と命じ、祭司たちには6節にあるように「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」と命じているのです。
ハッキリ言って不可能なミッションを命じているのです。川の水は勢いよく流れ、その深さは3m以上あるというのです。しかし、祭司たちはヨシュアの言葉に従いました。それはヨシュアの言葉ではなく、主の言葉として聞き従ったのです。
すると15節以降にあるように「祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った」というのです。そして、イスラエルの民は渇いた川底を渡ることが出来たというのです。
【主の臨在】
この出来事は一つの奇跡物語です。人間の常識では不可能なことが起こっているのです。もちろん、この出来事は神の業であるという事で納得すべきなのですが、神の業というのは、棚からぼた餅的にただ待っていればよいのでしょうか。
時には、ただ待っているだけで良いという時もあるかも知れませんが、私たちの側にも何かすべき事や行動を起こすように促されることもあると思うのです。それこそ、時と場合によるのかも知れません。
このヨルダン川を渡るという出来事において、ヨシュアをはじめとする、イスラエルの民が為すべきこととは何だったのでしょうか。今日の聖書を見るならば、まず第一にすべきことは主の臨在を求めることでした。私たちが事を起こす時、そこに主がおられるか、それが主の計画なのかどうかを間わなければなりません。
しかし、それが主の計画なのかどうかは、結果を見るまで分からないのが現実だと思います。もしかすると結果を見たとしても、それが主の計画だったのかについて確実な答えはないのかも知れません。
それでも、一歩踏み出さなければ何も起こりません。私たちにはヨシュアのような確信は持てないかも知れませんが、ヨシュアは確信をもって行動したようです。その確信の根拠は「契約の箱」だったのです。イスラエルの民がヨルダン川を渡った時、民を先導したのは「主の契約の箱」でした。この「契約の箱」は主の臨在を象徴していました。
契約の箱については、出エジプト記25章に詳しいことが書かれています。この箇所は幕屋建設について書かれてる箇所で、10節以降にこう書かれています。「アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く。この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。」
契約の箱は、そこに主がおられるという事なのです。そして、主の存在はその中に収められている「石の板」つまり、十戒が書かれた石板に象徴されているのです。
【聖別】
次に為すべきこととしてイスラエルの民に求められていることは、5節にあるように「自分自身を聖別」することなのです。この「聖別」という言葉は、聖書特有の言葉だと思います。一般的に用いられることのない言葉なので、その意味をきちんと理解しなければならないと思います。
口語訳聖書や新改訳聖書では「身を清める」と訳されているので、その方が具体的なイメージがわくかもしれません。「身を清める」という行為はユダヤ教に限ったことではなく、ヒンズー教の信徒がガンジス川に入って、身を清めるシーンなどを動画で見たことがあるのではないかと思います。
多くの宗教では、神の前に出る時、世俗の汚れを除かなければなりませんでした。その方法として、水を使った清めの儀式が執り行われていたようです。ユダヤ教においても、聖所に仕える祭司は、その前に身を清めなければなりませんでした。
ただ、今日の聖書に書かれている「聖別」という言葉については、身を清めることも「聖別」するための一つの方法ですが、それだけを意味しているのではありません。律法に記されている規定として、すべてのものが聖と俗に分けられていて、世俗のものを神聖な事柄に用いる場合、世俗のものから引き離して区別する行為を「聖別」と呼ぶようです。
イスラエルがヨルダン川を渡るためには、神の力が必要でした。イスラエルの思想では、神の力とは、その「きよさ」なのです。神の前に立ち、そのきよさ、力に与るためには罪深い世俗のままでは立つことが出来ないのです。だから、俗的なものを断って、聖別されなければならなかったのです。
ユダヤ教では、そのために沐浴をして身を清めているそうです。しかし、水で何かを洗い流したところで、何の意味があるのでしょうか。そのような信仰を持つ者以外から見れば、自己満足でしかないように感じます。
多くの日本人は、夜寝る前か、朝起きて出かける前にお風呂に入ったり、シャワーを浴びたりします。それによって身が清められるのでしょうか。確かに汗や汚れは落ちてきれいになるでしょう。でも、それだけです。
そのような愚かな、罪深い人間のためにイエスは十字架にかかられたのではないでしょうか。私たちは身を清め、聖別されなくても、イエスによって神の前へと招かれているのです。
【祭司の必要性】
三つ目にイスラエルの民がした行動は、祭司の後に従うという事です。もう一度3節を見てみましょう。そこには「主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け」とあります。
主の契約の箱をかつぐことが出来たのはレビ人の祭司だけでした。民数記4章にレビ族の中のケハトという氏族の働きについて書かれています。ケハトの子らの仕事は契約の箱をはじめとした、聖所の様々な道具を運ぶことでした。彼らは主に選ばれた祭司でしたが、そのように選ばれた祭司であっても、不用意に契約の箱に触れることはできませんでした。直接触れると死んでしまうというのです。
なぜなのか、その理由ははっきりとは書かれていません。しかし、創世記32章31節でヤコブが「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と語っているように、神の顔を見ることは人間には許されていなかったのです。同じように、神が共にいてくださるということを象徴する契約の箱に触れることが許されないというのも分かる気がします。
これらのことの背景にあるのは、神の聖性という事です。先ほどの聖別にも共通することなのですが、ヘブライ語聖書の中では、神の存在は徹底して「聖」なるものであって、俗世間の人間との間には深くて暗い川があり、そこを渡ることは出来なかったのです。
ヨシュアが語った神の命令は、そのように恐ろしい主の契約の箱をかついでヨルダン川を渡れという事なのです。レビ人にとっては宿命的な役割ですが、出来ればやりたくなかったかもしれません。しかし、誰かが運ばなければならなかったのです。そして、その誰かというのはレビ人の祭司しかいなかったのです。
ここに祭司たちの勇気と、それに従うイスラエルの民の従順さが求められるのです。ヨルダン川を渡るために必要なことの第一は、主の臨在でした。これはインマヌエルとして来られたイエスによって、私たちにも与えられている現実です。
そして、第二は、聖別という事でした。私たちが自分自身を清めることはできません。しかし、イエスの十字架によって、私たちは清められているのです。
そして、第三が祭司たちの勇気です。神は私たちと共にいてくださり、私たちを相応しい者と認めてくださるのです。最後に私たちが勇気をもって、ヨルダン川に一歩足を踏み入れるなら、不可能が可能になるのです。
祈 り
賛美歌 新生327 ゆく手をまもる永久の君よ
献 金
頌 栄 新生672 ものみなたたえよ
祝 祷
後 奏
2025年9月14日 主日礼拝
投稿日 : 2025年9月14日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー