前 奏
招 詞   ローマの信徒への手紙12章19節
賛美歌   新生  2 来れ全能の主
開会の祈り
賛美歌   新生557 幻をわれに
主の祈り
賛美歌   新生137 うみべの野で
聖 書   ヨシュア記20章1~9節
                      (新共同訳聖書 旧約P370)
宣 教   「逃げ道」    宣教者:富田愛世牧師
【逃れの町】
 今日はヨシュア記20章1節から9節までを読んでいただきましたが、先週の聖書箇所が3章だったので、ヨシュア記の大部分を飛び越えてしまったように感じます。そして、聖書を続けて読んでいく時に、出来れば避けたいと思われるような箇所が飛ばされているのです。
 そこにはカナンの地を占領、征服していくイスラエルの姿が記録されています。そして、神の命令として、敵を一人残さず滅ぼし尽くせといったような乱暴な言葉がたくさん出てくるのです。
 そういった箇所を読むと、新約聖書の神は愛の神なのに、旧約聖書の神は義と裁きの神だと感じ、矛盾を感じてしまう方が多いのではないかと思います。聖書の中には矛盾や誤解を招きやすい言葉がたくさん出てきます。そんな時に重要になるのは、その書かれた背景がどうなっているかという事なのです。
 21世紀に生きる私たちの常識と紀元前15世紀から13世紀の間に生きていたイスラエルの人々の常識を同じに考えてはいけないのです。この点について話しだすと時間が足りなくなってしまいますので、今は今日の箇所だけを見ていきたいと思います。
 ヨシュア記20章は「逃れの町」について語っています。神はモーセに向かって民数記35章、申命記19章の中で、逃れの町を作るように命じています。そして、カナンの地に入ったヨシュアに向かって、もう一度、逃れの町を六か所に作るよう命じているのです。
 当時、血の復讐と呼ばれる習慣が社会を維持するために認められていました。これはハンムラビ法典を根拠に「目には目を、歯には歯を」という有名な言葉に従った報復の仕組みでした。
 しかし、その仕組みの中では、意図せずに人を殺してしまった場合も、同じような報復の方法しかなかったようです。意図的に人を殺すという行為に対しては、何らかの処罰が必要ですが、その場合の処罰と意図せずに殺してしまった場合が同じというのは、納得のいかないものではないでしょうか。

【義と憐れみ】
 そこで、意図せずに人を殺してしまった場合、つまり、誤って殺してしまった場合には、どうするべきかという事が問われていたのではないかと思います。モーセに与えられた十戒には「殺すはずがない」という言葉があります。
 神によって創造された人間が、他人を憎み、その命を奪おうなどと考えるはずがない。もし心の中に思い描いたとしても、それを実行するはずがないと神は人を信頼されたのです。しかし、出エジプト記21章12節には「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。」とあり、続く13節には「ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。」とあります。最初から逃れの町が定められていたのです。
 「殺すはずがない」と信頼しながらも、この時すでに殺人を犯した者がいたのです。創世記に記されている「天地創造」の物語の最後に人間が創造されました。最初の人間アダムとエバはエデンの園で、何不自由なく暮らすことが出来たのですが、神との約束を破り「善悪の知識の実」を取って食べ、罪を犯してしまいました。
 神との約束を破った人間はエデンの園を追い出されましたが、その命は神によって守られ、やがて二人の子どもが与えられます。カインとアベルという二人の子どもでした。この二人が成長し、それぞれが手に職を持ち、ある時、神の前に献げものをするのです。
 兄のカインは土の実りを献げ、弟のアベルは子羊を献げました。ところが神はアベルの献げものに目を留め、カインの献げ物には目を留めませんでした。怒りを覚えたカインは、その妬みの思いからアベルを殺してしまうのです。人類史上、最初の殺人の記録が創世記4章に記録されています。
 この殺人に対する神の処罰はどうだったでしょうか。目には目を的にカインの命を取ることはしませんでした。代わりにカインを追放しているのです。島流し、流刑のような方法を取りました。この神の対応を見て「甘すぎる」と感じるでしょうか。
 カインは意図的な殺人でしたが、ここでは、意図的ではない殺人について記しています。誤って人を殺してしまった者が逃げ込むことのできる町、すなわち「命を守る避難所」を作るように神は命じているのです。そこに逃げ込む者は、共同体の裁きを受けるまで守られ、公平に扱われることが約束されました。
 律法は神の正義を示しますが、その厳しさは時に人を追い詰め、逃げ場を失わせます。律法を厳格に守らなければならないと感じるほど、人は息苦しくなり、希望を見失うのです。
 けれども神は、そのような律法のただ中に「逃れの町」を備えてくださいました。律法が厳しくあればあるほど、この逃れの町の存在は神の憐れみを鮮やかに照らし出します。正義と憐れみ、その両方を満たす神のご計画がここに表されています。

【神の守り】
 罪を犯すことは許されることではないと考え、人間は様々な処罰の方法を考えました。この考え方や方法は時代と共に、様々な変遷を遂げてきました。ある時期には非常に厳格な処罰の方法がとられてきました。また、ある時期には比較的緩やかな処罰の方法がとられました。さらに、犯罪の抑止力としての処罰という考え方が起こる時や、反対に犯罪を犯した者が更生するようにという思いが強く出てきた時期もありました。
 この背景には、律法を守ることで自らを義としようとする人間の弱さが映し出されています。最初に神との約束を破った時、人間が食べたものは「善悪の知識の実」でした。
 この「善悪の知識の実」というものが、もしかすると諸悪の根源なのではないでしょうか。人は善悪を知ってしまったら、必ず自分を善と位置付けるのです。自らを義としようとするという事は、自分の中にある善悪の知識によって評価したという事なのです。
 神に評価してもらうのではなく、自分で評価するのです。そして、律法を守れるはずがないにも関わらず、律法を守ろうとするならば、守ろうとすればするほど、律法に縛られてしまい、その重さに押しつぶされてしまい、逃げ場を失ってしまうのではないでしょうか。
 逃れの町が作られたという事は、そのような民に神が「逃れる道」「逃げ道」を備えられたという事なのです。神の憐れみの象徴なのです。完全に律法を守ることができない人間に対し、神はただ罰するのではなく、守りの道を開いてくださるのです。

【備えの道】
 私たちの歩みもまた、律法や規範に縛られ、思わぬ失敗や過ちによって自分を追い込んでしまうことがあります。「もう逃げ場がない」と感じる時、神はすでに逃れる道を備えておられるのです。
 ヨシュア記のテーマとして、ヨシュア記全体を貫いていることは「律法」です。神のみ言葉に聞き従うという事は、この当時においては律法を守るという事でした。そして、この20章では、誤って人を殺してしまった人が、神の憐れみによって守られるために逃れの町が備えられていることが語られました。
 共通することは、守ろうとしていたにも関わらず、守れなかった人に対して、神は何をされるのかという事です。パウロが語るように、善行を行おうとしても行えない、愚かな人間に対して、神は逃げ道を備えておられるのです。このような神の配慮を「甘い」と考えますか。もし「甘い」と思われるなら、あなたは自分で自分を義と認めたいという思いに縛られているという事です。
 ヨシュア記の逃れの町は、今はありません。それでは、神の憐れみ、神の配慮はもうなくなってしまったのでしょうか。そうではありません。神の憐れみ、神の配慮は「逃れの町」よりもっと大きな形で実現しているのです。
 それは、イエス・キリストにおいて実現したのです。この主イエスこそ、最終的な「逃れの町」なのです。罪を負った私たちが逃げ込み、命を守られる避け所なのです。
 ヨシュア記20章の出来事は、単なる古代の制度の説明ではありません。律法に縛られ、重荷を負う民のために神が備えられた憐れみのしるしです。そしてそれは、今日を生きる私たちにも響いています。正義と憐れみの神は、今も私たちに逃れの道を用意してくださっているのです。

祈 り
賛美歌   新生576 共に集い
献 金   
頌 栄   新生672 ものみなたたえよ
祝 祷  
後 奏