前 奏
招 詞   ルカによる福音書11章30節
賛美歌   新生 13 ほめまつれ 主なる神
開会の祈り
賛美歌   新生 59 父の神よ 汝がまこと
主の祈り
賛美歌   新生290 主の祈り
聖 書   ヨナ書1章1~16節
                      (新共同訳聖書 旧約P1445)
宣 教   「神に背いた男」    宣教者:富田愛世牧師
【ヨナの行動】
 子どもの頃から教会に通っていたり、教会学校の小学生以下のお手伝いをしたりしたことのある人にとっては、今日から読み始めるヨナの物語はとてもなじみの深いものではないかと思います。子どものための聖書絵本にも必ずヨナの物語は載っているし、子ども賛美歌にもヨナの歌が振り付きで載っていたような気がします。
 しかし、改めて「ヨナってどんな人」と聞かれると答えにくい人ではないかと思うのです。聖書では預言者ヨナとなっていますが、いつ頃の人で、どんな働きをしたのかについては、あまり詳しい資料がありません。それは、イスラエルとの関係において、具体的な預言を語っていないという事が大きな理由かもしれません。
 ヨナ書を読むだけでは、いつの時代の預言者なのかは分かりませんが、列王記下14章25節を読むと、そこには「しかし、イスラエルの神、主が、ガト・ヘフェル出身のその僕、預言者、アミタイの子ヨナを通して告げられた言葉のとおり、彼はレボ・ハマトからアラバの海までイスラエルの領域を回復した」と書かれています。これは北イスラエルをヤロブアムという王が治めていた時の出来事なので、BC8世紀に北イスラエルで活動していた預言者だと思われます。
 列王記の記述を見ると、ヨナは北イスラエルの国土が回復されることを預言していることが分かります。しかし、ヨナ書に描かれるヨナは、神の言葉に従うのではなく、反抗する姿が強調されます。
 ここにはヘブル語聖書のもつ、危険な側面に対する批判が込められているように思われるのです。それは偏った選民意識、イスラエルの民族主義というものです。ヨナだけではなく、他の多くの預言者たちにも共通するものですが、彼らはみな、良い意味での愛国者でした。自分の国が神の祝福を受けられるように、その過ちを指摘し、悔い改めへと導いていたのです。
 しかし、その視線の先には、他の民族も神に愛されているという広がりはなかったのです。ですから、イスラエルに対する預言なら喜んで語ったかもしれませんが、ニネベという異国の町、それも敵国の首都に対して何の関心もなかったので、神の命令に従うことが出来なかったのです。

【ニネベ】
 ヨナに与えられた預言は、ニネベに対する悔い改めの勧めでした。ニネベというのは現在のイラクの北にあるモスルという町からチグリス川を挟んで、その対岸に遺跡が発見されたそうです。当時のニネベはアッシリアの首都として繁栄し、アッシリアの領土拡大に伴って、様々な民族がニネベに集まり、そこで生活していたようです。 
 人がたくさん集まり、経済活動がなされると、町は様々な分野で発展していきます。芸術の面でもたくさんの遺跡が発見されているようですし、文化的にも大きな図書館があったようです。さらに市場なども整備され、経済的にも大きく繁栄しました。
 しかし、物質的な繁栄は、道徳的な退廃をも生み出してしまいます。具体的にニネベがどのような罪を犯した町なのかは分かりませんが、ニネベは悪の代名詞のようになっていました。ニネベの町が滅んでしまうのは自業自得だとヨナは考えたに違いありません。それはヨナが意地の悪い人間だったから、そう考えたのではありません。誰の目にもそのように映っていたのだと思います。
 また、当時の北イスラエルはアッシリアの脅威に怯えていました。ヨナにとって、愛する祖国を救うには、ニネベの町が滅ぶことこそ、都合の良い出来事だったのです。ですから、ニネベが今の生活を捨て、神の前に悔い改め、立ち返るように語るということは我慢できない事柄だったはずです。
 ヨナ書1章1~2節で「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。』」という主の言葉を聞いたのですが、ヨナは自分の価値観に従い、神の言葉を捨て逃げてしまったのです。

【嵐の海】
 ヨナは何の躊躇もなく、東のニネベには向かわず、正反対に進み西のタルシシュへ行く船に乗り込みました。このタルシシュという町がどこにあるのかという点については、様々な説があるようですが、現在のスペインにあったのではないかという説が有力です。
 ヨナの乗った船が港を離れると、すぐに嵐が襲ってきました。私は地中海の海を知りませんが、何となく穏やかな海を想像していました。しかし、新約聖書のパウロの証言などにもあるように季節によってはとても荒れた海だったようです。
 この場面でも、海は荒れて嵐になっています。しかし、当たり前の事かもしれませんが、船員たちはそれなりに慣れていただろうと思うのです。自分たちの生活の場が海なのですから、嵐に対する対処方法を心得ていたはずです。にもかかわらず、この場面では船員たちが慌てているのです。それくらい尋常ではない嵐だったのでしょう。
 船員たちはそれぞれの経験と知恵を尽くして対処しましたが、どうにもならず、船が沈没しないように荷物を捨てて軽くしているのです。これは、ある意味で最終手段だったと思います。様々な荷物を届けることが彼らの仕事だったはずです。それを捨てなければ、自分たちの生命が危ないという危機感を覚えていたのです。そして、手を尽くした挙句、最後には、それぞれ自分の神に助けを祈り求めるのです。
 そんな時、船底で寝ているヨナを船長が見つけました。船長にしてみれば、船に乗っている全員が運命共同体となり、必死になって助かる道を探しているのに、そんな時に眠っているという不届き者に怒りを覚えたはずです。そして、ヨナにも祈るように勧めました。
 船の甲板では、今まで誰も経験したことの無いような嵐に対して、これは神罰だという結論が出たようで、くじを引き、誰のせいでこの嵐が起こったのかを知ろうとしていました。当然ヨナもくじを引きました。そして、くじはヨナに当たったのです。
 ヨナは自分の神について客観的に語り、自分の事を話したようです。しかし、神に向かって祈ろうとせず、自分を海に投げ込むことによって助かるだろうと語ります。船員たちはヨナの言葉を聞きましたが、すぐにヨナを海に投げ込むことはせず、もう一度、岸に向かおうとしました。しかし、どうにもならず、躊躇しながらも最終的にはヨナを海に投げ込みました。

【ヨナの死】
 ヨナが海に投げ込まれると嘘のように嵐は静まりました。つまり、神の怒りが静まったのです。
 ここで私たちは神を知っているヨナと神を知らない船員たちの対照的な姿を見ることが出来ます。嵐の中で恐れを感じている船員と船底で眠っているヨナの姿があります。嵐が船を襲ったことを通して、ヨナは自分の罪に気づかされ、嵐の原因を知ったのです。そして、自分が死ぬことによって、神の前に悔い改める覚悟を決めたのはないでしょうか。
 この時、ヨナは死に対する恐れを感じていないように思われます。そこには自然を含めた全てが神の支配の中にあるという、良い意味では確信ですが、ヨナの立場からすれば開き直りのような感情があったように思えるのです。ニネベに行きたくないという反抗心を持っていましたが、完全に降伏したのです。
 ヘブル手紙9章27節に「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」と書かれています。ここでヨナは死んではいませんが、海に投げ込まれることは死を意味しています。そういう意味で死んだのです。そして、神の裁きを受けるのです。
 ここでの神の裁きとは何でしょうか。悔い改めたことに対する救いなのです。ヨナは神からの使命を果たすため、この後3日間、魚の腹の中で過ごし、陸地に吐き出されます。神の使命を果たすまでは、生かされるのです。
 実際にはヨナの思いの中には、ニネベに行くくらいなら死んだほうがましだという思いが残っていたでしょう。しかし、ヨナの思い通りには行かないのです。絶対的な神の計画が優先するのです。
 そして、このヨナの物語を通して知らされるのは、神の大きな哀れみです。それはイスラエルの民に限定されたものではなく、全ての民に対する愛なのです。

祈 り
賛美歌   新生661 聞け 主のみ声を
主の晩餐  
献 金   
頌 栄   新生672 ものみなたたえよ
祝 祷  
後 奏