前 奏
招 詞   ローマの信徒への手紙11章11~12節
賛美歌   新生 21 栄光と賛美を
開会の祈り
賛美歌   新生437 歌いつつ歩まん
主の祈り
賛美歌   新生292 安かれわが心よ
聖 書   アモス書2章6~8節
                    (新共同訳聖書 旧約P1430)
宣 教  「イスラエルの罪」    宣教者:富田愛世牧師
【預言者】
 今日は「イスラエルの罪」というタイトルを付けましたが、近年パレスチナとの間で問題を起こしている、国家としてのイスラエルを断罪しようとしているわけではありません。また、最初に確認しておきたいと思いますが、ここで語られる「イスラエル」と現代の「イスラエル国家」は全く別物です。
 聖書の語る「イスラエル」は神に選ばれた民であり、イエスをメシア、救い主と信じる者が「イスラエル」と呼ばれるのであって、この地上にイスラエルという国家が再建されるというのは、イエスの十字架の死と復活を否定するユダヤ教の思想なのです。
 キリスト教の中にもローマの信徒への手紙11章を根拠にイスラエル国家が起こされたことを聖書の成就だと解釈する方がいますが、それは解釈の問題ですし、パウロという人は元々レイシストだったということを考慮に入れておかなければならないと思います。ということで、現代のイスラエル国家は神に選ばれた民ではありませんので、イスラエル国家を断罪する意味ではありません。
 7月からヘブライ語聖書の民数記、申命記、ヨシュア記と読み進め、10月はヨナ書を読み、11月はアモス書とヨエル書を読むことになっています。民数記と申命記ではモーセというイスラエルの指導者が中心的な活躍をし、ヨシュア記では名前の通りヨシュアが指導者として活躍しました。
 このモーセとヨシュアはイスラエルの指導者でしたが、同時に預言者と呼ばれることもありました。そして、ヨナも預言者と呼ばれ、今月読むことになっているアモスとヨエルも預言者です。
 という事で、預言者とはいったいどういう人たちなのでしょうか。何となくわかっているようで、説明するとなると難しい立場の人たちではないかと思うのです。ヨナやアモス、ヨエルについては聖書の分類でも「預言書」に入っているので分かり易いですが、モーセやヨシュアとは同じ分類に入らないような気がしませんか。
 皆さんはどうか分かりませんが、私の中には預言者像のようなものがあって、バプテスマのヨハネのように、革の毛衣を着て、荒野に住み、イナゴと野蜜を食べて生活しているような人をイメージしてしまします。しかし、ヘブライ語聖書に登場する預言者は多種多様で、ひとつのイメージには収まりきらないような気がします。
 キリスト教大辞典という本があり、その辞典の中で定義されている預言者とは「紀元前3千年以前からメソポタミア地方で活動した、神がかり的な狂騒状態の中で、収穫、紛失物など民衆の日常生活に関する神託を授けることによって生計を立てる者」となっていました。
 イスラエルが王国として成立する時代には神殿や王に仕える職業預言者といわれる人たちが登場しましたが、現代的には「占い師」のような人たちだったと考えられます。
 このような預言者に対して、ヘブライ語聖書に登場する預言者とはサムエル記以降に登場するサムエルやナタンのような、神の言葉を預かって、それを民衆や指導者に伝える働きをする人々を指すようになりました。

【預言者アモス】
 今回テキストとして与えられているアモス書は、タイトルの通り、アモスという預言者の言葉が記録されているわけですが、このアモスという預言者はBC8世紀に北イスラエル王国で活動した最初の記述預言者と言われています。
 先ほど預言者の中の職業預言者という名前を出しましたが、今度は記述預言者という名前が出て来て、いったい何なのかと思われるかもしれません。少し説明が足りなかったので、もう一度説明したいと思います。
 職業預言者と呼ばれる人たちは、神殿や王に直接仕え、生計を立てる人々で、神からの神託を受けるというより、昔から伝わっていた呪術的な方法で占いのようなことをして、王の進めようとしている政策などを後押しするような活動をしていたようです。いわゆる「YESマン」のような立場です。
 例えば、王が隣りの国に軍事侵攻をしようとする時、職業預言者に伺いを立てるのです。そうすると職業預言者は、いかにもというような方法で占い、それを後押しするのです。
 それに対して、真の預言者とか、神の預言者と呼ばれる人たちは、王や神殿に仕えるのではなく、独立した生計の中で、神からの神託を待つのです。そして、神託があれば、それを王や民衆に伝えるのです。
 さらにヘブライ語聖書に記録されている預言者たちの多くは記述預言者と呼ばれています。それは、神からの神託を語るだけでなく、記録して残しているという事なのです。
アモスは1章1節によると「テコアの牧者」だったとあります。テコアとはエルサレムの南にある荒野に面した村です。そこで牧者として働いていたようです。また7章14節を見ると「家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者」と語っています。
 この牧者というのは、直接羊の世話をするような労働者ではなく、羊の持ち主だったようです。そして、いちじく桑についても労働者としてではなく農園の持ち主、つまり、牧畜と農園を管理するオーナーだったようです。
 そして、南ユダ王国の人間でしたが、神からの召命を受けて、北イスラエル王国のサマリアとベテルで預言活動をしたようです。この預言活動についても、いくつかの解釈がありますが、長くて2年程度のものだったようです。

【諸国の罪】
 さて、先ほど職業預言者は王や神殿に仕えると言いましたが、この当時、北イスラエル王国には後世に残るような立派な神殿はありませんでしたが、いくつかの主要な祭壇が築かれていて、中心的なものはベテルの祭壇でした。
 そこには職業預言者の集団がいて、祭儀的預言者と呼ばれていたようです。この祭儀的預言者集団の働きは、諸外国に対する呪いの宣言をしていたようです。7月に民数記を読んでいた時、23章に敵対するモアブの王バラクがバラムという預言者にイスラエルの民を呪うよう命じた箇所がありました。
 当時の政治は宗教と一体になっていましたから、当然の事なのかもしれませんが、政治が何かを決断する時には必ず宗教者の後押しというか、宗教的なお墨付きが必要だったようです。
 現代においても事実なのか、ただの噂なのかは分かりませんが、アメリカや韓国の大統領が何かを決断する時、占い師に頼っているという話が後を絶ちませんし、韓国では占い師や関係者が逮捕されたという話も聞きます。
 アモスという預言者は職業預言者でも、祭儀的預言者でもありませんでした。独立した、直接、神からの神託を受ける預言者でしたが、1章では近隣の7つの国や地域に対する裁きを語り始めました。
 1章3節ではダマスコ、6節はガザ、9節はティルス、11節はエドム、13節はアンモンという5つの国や地域に対する裁きが語られ、続く2章1節ではモアブ、4節はユダに対する裁きが語られています。
 イスラエルとユダは兄弟国ですから、友好的な関係にあるように捉えられますが、統一王国がソロモン王の死によって分裂してからは、友好的ではなかったようです。さらに、この7つの国と地域は、民族的にはみんなセム系とハム系というノアを父祖とした民族ですから同族と考えることが出来ますし、エドムはイサクの子エサウの末裔、アンモンとモアブはアブラハムの甥ロトの末裔ですから、ルーツ的には同じなのですが、時代と共に関係は悪くなったようです。
 ここで、なぜ7つの国と地域なのかについては、当時の慣習として7を一区切りにしていたという事があるようです。そして、7番目にユダへの裁きが語られていることにも深い意味があったようです。

【8番目の国】
 そして、今日の箇所である2章6節には8番目の国として、イスラエルへの裁きが語られるのです。この8番目という順番についても、アモスは当時の慣習を破っているという事に注意しなければならないと思います。それくらい重要な事柄だということを意味しているのです。
 当時の北イスラエル王国は、その歴史上最大の繁栄を謳歌していた時代でした。領土的には最大に拡大していましたが、国の中では神の前に悪を行っていたという事なのです。
 悪を行っていた、つまり、罪を犯していたということですが、どのような罪を犯していたのかについては6節から見ていくと「正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売った」とあります。イスラエルでは人身売買は許されていませんでした。しかし、貧しい者が権力者に対する、わずかな負債のために奴隷として売られてしまうという現実が裁かれています。
 7節には「弱い者の頭を地の塵に踏みつけ、悩む者の道を曲げ、父も子も同じ女のもとに通い、神の名を汚している」のです。日本でも土下座という謝罪の方法がありますが、近年、土下座を強要することについては、刑法の強要罪に当たり、人権感覚からも問題視されています。また、古代においては祭儀的淫行という習慣がありましたが、聖書では異教の習慣として禁止しています。
 8節では「質札や科料」の扱いについて書かれていますが、どちらにしても個人の所有となるものではなく、むさぼり、搾取、人権感覚の欠如といった罪、すなわち、神への反逆に対する裁きの言葉が語られるのです。
 このようにイスラエルの罪に対する裁きは語られますが、続きの9節、10節では、イスラエルのために道を備え、導かれたのは主なる神ご自身だと語っているのです。そして、3章では、神が選ばれた民がイスラエルだけだからだと語られています。
 神からの恵みを忘れる時、私たちの中には不平や不満の罪が入り込んでくるのです。そして、それが自己中心になり、人との関係を崩し、神との関係をも崩してしまう結果となるのです。私たちが常に神からの恵みを思い起こすなら、神との正しい関係を保ち、人との関係の中でも無理をせずに過ごせるのです。

祈 り
賛美歌   新生494 わがたましいを愛するイエスよ
主の晩餐  
献 金   
頌 栄   新生673 救い主 み子と
祝 祷  
後 奏