前 奏
招 詞   マタイによる福音書3章1~2節
賛美歌   新生 21 栄光と賛美を
開会の祈り
賛美歌   新生278 わが心は歌わん
主の祈り
賛美歌   新生507 主の手に委ねて
聖 書   ヨエル書1章1~5節
                   (新共同訳聖書 旧約P1421)
宣 教  「貪欲の時代」    宣教者:富田愛世牧師
【ヨエル書の背景】
 今日と来週はヨエル書をご一緒に読むことになっていますが、ヨエル書と言われてもピンとこないかも知れません。先週まで読んでいたアモス書の前に位置していますが、ヘブライ語聖書の順番は書かれた順番、つまり歴史的な流れの中で順序付けられているのではなく、神学的な意図があります。
 ユダヤ教のヘブライ語聖書とキリスト教の旧約聖書では、その順番が違っていますが、キリスト教では、天地創造から始まって、イスラエルの歴史が語られ、メシア到来に関する預言が続くという形になっています。
 皆さんがお持ちの聖書では、ヨエル書の後にアモス書が続いていますが、アモス書の時にお話したように、預言書の中ではアモス書が一番早い時期に書かれたもので、紀元前8世紀頃の出来事ですが、このヨエル書は紀元前400年頃に書かれたと考えられています。
 ヨエル書は、ヘブライ語聖書の中では比較的短い預言書ですが、内容的には非常に深いメッセージ性のある預言書だと考えられています。そして、ヨエルという預言者がいつ頃活動していたのかについては、正確には分かりません。このヨエルという名前は特別な名前ではないので、ヘブライ語聖書の中に何人か出てきますが、ヨエル書の預言者ヨエルはここにしか登場しないので、調べようがないのです。
 この預言の背景には、大量のイナゴの襲来によって国中の農作物が荒らされ、食い尽されてしまったという状況があります。イスラエルに住む人々は飢えと絶望の中にあったと考えられます。
 畑も、ブドウも、果樹もすべてがイナゴによって食い尽くされ、まるで神の裁きが下ったような光景が国中に広がっていたのです。ヨエルはこの自然災害を単なる偶然起こった災害だと捉えるのではなく、神からの警告として受け止めたのです。
 それは、外面的な豊かさの裏で神への信頼を失い、自分たちの欲望だけを満たすことに夢中になっていた、イスラエルの民へのしるしなのです。

【貪欲の時代】
 ヨエル書1章4節を見てください。ここには「かみ食らういなごの残したものを 移住するいなごが食らい 移住するいなごの残したものを 若いいなごが食らい 若いいなごの残したものを 食い荒らすいなごが食らった。」と書かれています。これはただの虫、イナゴが群れを成して襲ってきたということではありません。貪欲に貪欲を重ね、限りなく奪い続ける人間の姿を現しているのです。
 イナゴの群れと聞いて何か思い出しませんか。出エジプト記10章に新共同訳聖書では「いなごの災い」という小見出しが付けられています。モーセがエジプト王ファラオにイスラエルの民を解放するよう頼みましたが、ファラオはかたくなに拒みました。それに対して神は「10の災い」を送ってファラオの心を変えさせようとしました。その時の8番目の災いが「いなごの災い」だったのです。
 出エジプト記では、敵にイナゴの災いが下ることによって、イスラエルが解放へと向かうのですが、ここでは人間の貪欲さを象徴するものとして、イナゴの災いが用いられています。
 私は実際にイナゴの大群を見たことはありませんが、テレビのニュースなどでアフリカのある地域にイナゴが大発生し、農作物だけでなく、緑という緑がイナゴに食べ尽くされて、辺り一面が砂漠のようになってしまったという場面を見たことがあります。
 それこそ、イナゴが地を覆い尽くすように、辺り一面がイナゴだらけ、足の踏み場もないくらいの光景がニュース画像として配信されたのを見ました。ここで語られる貪欲も、イナゴという形をもって地を覆い尽くすように、すべての命が食い尽くされていくのです。
 私たちが生きている現代も、まさに「貪欲の時代」なのではないでしょうか。便利さを求め、快適さを求め、成功すること、所有すること、名誉を受けること、そういった欲望が果てしなく、私たちの心を動かしていくような時代だと思うのです。
 必要以上のものを求め、さらに上へ上へと、上を目指し、終わりのない競争の中を走らされているような気がします。走っている時は気付かないのかも知れませんが、一度止まってしまうと心が疲弊しきっていることに気付いてしまうのです。
 人間の欲は、イナゴのように広がり、地球上のあらゆる資源を食べ尽くし、競争社会の中で、隣り人を敵と見るようになり、関係性が破壊され、自分自身の心にも平安がなくなってしまうのです。

【貪欲の末路】
 そのような私たちに向かって、ヨエルは5節でこう語ります。「酔いしれる者よ、目を覚ませ、泣け。酒におぼれる者よ、皆泣き叫べ。泡立つ酒はお前たちの口から断たれた。」この「酔いしれる者」とは、アルコールに酔っている人の事ではありません。欲に酔いしれて、神を見失っている者のことを指しているのです。
 ヨエルはイスラエルの民が「自分の快楽」「自分の豊かさ」「自分の利益」に酔い、隣人をないがしろにし、さらに、神を忘れてしまっている現実を嘆いているのです。
 「自分の快楽」「自分の豊かさ」「自分の利益」を求めることは、必ずしも悪いものではありません。神もこれらを否定しているわけではありません。しかし、これらが中心的なものとなり、隣りにいる人を見ようとしなくなってしまう。つまり、関係性という愛の心がなくなってしまうことが問題なのです。
 「自分の快楽」「自分の豊かさ」「自分の利益」が心の中心になって、これらのものを求めるのなら、神が与えようとしている祝福が腐ってしまうのです。反対に神を中心においてこれらのものを求めていこうとするならば、その方法や結果は、まったく違うものになるのではないでしょうか。
 英語でWWJDという、ある文章の頭文字を用いたグッズが、数年前に流行りました。これは「What would JESUS do?」という言葉で、「イエスなら、こんな時、どうするだろうか?」という意味なのです。神を中心にするとは、こう言う事なのです。
 貪欲というものは、私たちの心を鈍らせ、感謝する気持ちを奪い、他者への思いやりを枯らしてしまうのです。神は「イナゴの群れ」を通して、「あなたたちは何を食い尽してきたのか?」と問いかけておられるのではないでしょうか。

【新しい回復】
 今日お読みした1章5節までには、イナゴによる災害を受け、それが神からの裁きのしるしと解釈したヨエルの預言の言葉が並んでいるので、気持ちが落ち込んでしまいますが、預言の言葉はそれだけではありません。
 今日は読んでいませんが、2章を見ると「神に立ち帰れ」という強い呼びかけへと続いていきます。2章12節には「主は言われる。『今こそ、心からわたしに立ち帰れ』」そして、13節にも「あなたたちの神、主に立ち帰れ」という言葉が続いているのです。
 つまり、いなごの災いは終わりではなく、始まりなのです。神からの裁きの言葉は、イスラエルを断罪するために語られるのではありません。神の目的は滅ぼすことではなく、目を覚まさせることなのです。
 私たちは今、貪欲の時代に生きています。しかし同時に、神の恵みの時代にも生かされているのです。なぜなら、私たちには聖書を通して、神が地上に送ってくださった救い主、メシアの到来が実現したことを知っているからです。
 今から2000年前に、ユダヤの片田舎にあるベツレヘムの貧しい家畜小屋で、預言者たちが預言していた救い主、イエスが生まれたのです。そして、イエスの語った福音は「自分を愛し、隣り人を自分のように愛しなさい」というものでした。さらにイエスは「隣り人とは、あなたの敵だ」と語り「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と語るのです。
 私たちが欲望から目を覚まし、神を求めるとき、荒れ果てた地にも、心にも、再び「芽」が出ます。ヨエル書2章の続きにはこうあります。21節を見ると「主は偉大な御業をなしとげられた。」とあるのです。「成し遂げるだろう」ではなく「成し遂げられた」と完了形で語られるのです。
 大いなる御業とは、奪い合いの時代から、分かち合いの時代へと続く神の恵みの計画なのです。貪欲の時代にあっても、神に立ち帰るなら、新しい神の価値観に基づいた実りと平安が必ず与えられるのです。

祈 り
賛美歌   新生454 罪に悩む者みな
献 金   
頌 栄   新生673 救い主 み子と
祝 祷  
後 奏