巻頭言 富田愛世
祈りの内容を聖書から見ていく時、イエスが語られた祈りについて思うことがあります。マタイによる福音書9章37~38節でイエスは「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と弟子たちに勧めました。
「収穫は多いが、働き手が少ない」のが現状だとイエスは語っているのです。ただ、ここで語られる「働き手」とは誰を指しているのでしょうか。多くの教会では「働き盛り」のクリスチャンが加わってくれることを願っているように思えます。しかし、そうなのでしょうか。聖書を読むと、神はクリスチャンも用いますが、そうではない人も用いているのです。
エズラ記を見ると、バビロン捕囚から帰還したイスラエルの民は神殿の再建に取り掛かります。その命令を下したのはペルシアの王キュロスでした。さらに、神殿再建にかかる莫大な費用を賄ったのもキュロス王でした。神は神殿再建のために異教徒であるキュロス王を用いたのです。
また、良きサマリア人の譬えを見る時、レビ人も祭司も薄情な人間ではなく、神が用いなかっただけなのです。そして、イスラエル人が忌み嫌うサマリア人が用いられたのです。
神はキュロス王を用い、サマリア人を用いられるお方なのです。教会が働き人を送ってほしいと願う時、そこで用いられるのはクリスチャンではないのかも知れません。私たちの愚かな、狭い常識にとらわれることなく、神の大きな働きに期待していくならば、必ず神は答えてくださるのです。
