前 奏
招 詞   サムエル記上21章7節
賛美歌   新生  3 あがめまつれ うるわしき主
開会の祈り
賛美歌   新生 59 父の神よ汝がまこと
主の祈り
賛美歌   新生519 信仰こそ旅路を
証 し   
聖 書   マルコによる福音書2章23~3章6節
                            (新共同訳聖書 新約P64)
宣 教  「解放の日」    宣教者:富田愛世牧師
【安息日とは?】
 ユダヤ人にとって律法の規定を守ることは、信仰生活の中心であり、自分たちが神に選ばれた民であることを具体的に示す生き方でした。律法は単なる道徳規範ではなく、神との契約のしるしであり、日々の生活を通して神と共に歩むための指針だったのです。
 特にファリサイ派と呼ばれる人々は、律法を厳格に守ることに人生を懸けていました。彼らは決して偽善者の集団ではなく、むしろ「どうすれば神に忠実に生きられるのか」を真剣に考え続けてきた人々でした。
 その背景には、イスラエルの歴史があります。バビロン捕囚という苦い歴史を通して「律法を破ったから裁きを受けたのだ」という反省を深く心に刻みました。そして、二度と同じ過ちを繰り返さないために、律法を守ることが民族の存続と信仰の純粋性を保つ唯一の道だと考えたのです。その結果、律法の周りにさらに細かな解釈や規定が積み重ねられていきました。
 安息日はその律法の中でも、特に重要な位置を占めていました。創世記において神ご自身が第七の日に休まれたことに基づき、人もまた労働をやめ、神を覚え、命の秩序を取り戻す日とされたのです。
 しかし時代が進むにつれ、「安息日とは何をしてはいけない日か」という理解が強まり、労働の定義は非常に細かく規定されるようになりました。
 そのような中で、イエスと弟子たちが安息日に麦畑を通り、弟子たちが麦の穂を摘んで食べたという出来事が起こります。これは私たちの感覚からすれば、ごく自然でささやかな行為です。
 しかし、ファリサイ派の人々はこれを「刈り取り」と「脱穀」という労働に当たるとして非難しました。彼らにとって問題だったのは、弟子たちの空腹や必要ではなく、安息日の規定が破られたという事実そのものだったのです。

【どうでもよいこと】
 ファリサイ派の人々の厳しい非難に対して、イエスの反応は驚くほど落ち着いています。それは、彼らが問題にしていることが、イエスにとっては本質的ではなかったから、どうでもよいことだったからです。
 ファリサイ派の人々の非難に対し、イエスは正面から律法論争をするのではなく、視点そのものを変える言葉を語られます。イエスにとって、弟子たちが麦の穂を摘んだという行為自体は、実は取るに足らないことでした。なぜならイエスは、律法を守ること以上に、律法が何のために与えられたのかを見ておられたからです。
 イエスは「安息日は人のために定められたのであって、人が安息日のためにあるのではない」と宣言されます。この言葉は、当時の宗教的価値観を根底から揺さぶるものでした。
 律法を守れないという事は、そのまま罪人としてのレッテルが貼られてしまうという事でした。そのような考え方に対して、イエスは安息日を守れない人が裁かれるのではなく、安息日が人を生かすために存在しているという逆転の発想を語るのです。
 ファリサイ派の人々は、律法を守ることに真剣であったがゆえに、いつの間にか律法そのものを目的としてしまいました。その結果、律法の背後にある神の慈しみや憐れみ、人を生かそうとする神の意図を見失ってしまったのです。
 空腹の人が目の前にいても、「今日は安息日だから」という理由で目を閉ざしてしまう。そこでは、律法が命を守るためのものではなく、命を縛り、もしかすると、命を奪ってしまうものへと変質してしまうのです。
 規定に違反したかどうかという形式的な事は、イエスにとって「どうでもよい」ことだったのです。しかし、人が律法によって苦しめられ、神の恵みから遠ざけられてしまうことは「どうでもよい」ことではありませんでした。イエスは、律法を軽んじるのではなく、律法を本来あるべき姿へと取り戻そうとしておられたのです。

【神の喜び】
 3章に入ると場面は会堂へと移ります。そこには手の不自由な人がいました。この場面には、目に見えない緊張感が漂っています。ファリサイ派の人々は、イエスが安息日に癒しを行うかどうかを注意深く見張っていました。彼らは神の御心を求めていたのではなく、イエスを訴えるための口実を探していたのです。
 イエスはその視線を承知の上で、人々に問いを投げかけます。「安息日にしてよいのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。この問いは、単なる倫理的な質問ではありません。安息日の本質、そして神が何を喜ばれるのかを問う、決定的な問いです。
 安息日に癒しを行わなければ、その人は不自由なまま苦しみ続けます。癒さないという選択は、一見すると「規定を守る」正しい行為に見えるかもしれません。しかしそれは同時に、「救える命を救わない」ことになります。
 イエスは、沈黙する人々の姿に怒りを覚え、同時にその心の頑なさを深く悲しまれました。それは、人の心が律法によって硬く閉ざされてしまった現実への悲しみでした。
 そしてイエスは、その人に手を伸ばすよう命じ、手を元通りにされました。この行為は、安息日を破る挑発ではなく、神が何を喜ばれるのかをはっきりと示しています。神が喜ばれるのは、規定が守られること以上に、人が癒され、回復し、命が生き生きと取り戻されることなのです。

【解放の日】
 労働は本来、神から与えられた祝福でした。しかし創世記は、罪によって労働が重荷となり、「汗してパンを食べる」苦しみへと変わったことを語ります。人は働かなければ生きられず、休むことにさえ罪悪感を覚える存在になってしまいました。
 もし神が安息日を与えられなかったなら、人は休むことを知らず、ただ働き続ける存在になっていたでしょう。人の価値は、どれだけ働いたか、そして、その結果としての生産性によって測られるだけになったでしょう。
 数年前から「働き方改革」という事が語られるようになりました。これも本質的には非常に大切なことですが、言葉や規則だけが独り歩きして、働きにくい環境も作られてしまっています。
 そのような流れの中で「働いて、働いて、働いて、働きます」などと恥ずかしげもなく、公的な場所で口にする人がいるのですから嘆かわしいと思っていたら、それが2025年の流行語大賞に選ばれたというのですから、この国の文化レベルの低さが露呈してしまったように感じます。
 チョット横道にそれてしまいましたので、話を聖書に戻します。
 働くという事に関して神は、律法を通して週に一度、労働から解放される日を定めてくださいました。安息日は、働きによって自分を正当化したり、評価したりする日ではなく、「あなたはすでに神に愛されている」と思い出す日です。神を礼拝し、命を回復するための日なのです。
 この日、イエスは弟子たちの行為を許し、ご自身も癒しという「労働」をなさいました。それは、安息日を否定する行為ではなく、安息日を完成させる行為でした。イエスは、安息日が「何もしない日」ではなく、「命を生かす日」であることを、ご自身で示されたのです。
 大切なのは、規定を守っているかどうかではありません。どこに神のみこころがあり、何が人を生かすのかを問い続けることです。安息日は、神が私たちを束縛から解放し、再び立ち上がらせてくださる「解放の日」です。週に一度与えられているこの恵みを、感謝と喜びをもって受け取りたいと思います。

祈 り
賛美歌   新生544 ああ嬉しわが身も
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏