前 奏
招 詞   創世記15章6節
賛美歌   新生 40 わが喜び わが望み
開会の祈り
賛美歌   新生556 恵みの高き峰
主の祈り
賛美歌   新生415 わが主よここに集い
聖 書   マルコによる福音書5章25~34節
                          (新共同訳聖書 新約P70)
宣 教  「あなたはだれ?」     宣教者:富田愛世牧師
【イエスの状況】
 マルコによる福音書5章25~34節は、ここだけを抜き出して読んでも、とても感動的な出来事が起こっていますが、この出来事は、ある出来事の途中に割り込んできたような出来事だったのです。
 それは21節からの箇所に記されています。この時も大勢の群衆がイエスについてきました。そして、一人の会堂長が現われるのです。会堂長とは、ユダヤ教の集会所シナゴーグの責任者ですから、多くの人から信頼されていた人だと思われます。
 この会堂長はヤイロという名前で、この時娘が死にそうな病にかかっていたという事なのです。ヤイロはイエスの所に来て、ひざまずき娘を病から癒し、その命を助けてほしいと願ったのです。その願いに応え、イエスはヤイロの家へと急いでいた時の出来事が25節からの記録となっているのです。
 24節の最後を見ると「大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫っていた」と書かれています。ここには、秩序だった礼拝空間とは正反対の、雑然とした、息苦しいほどの混乱があります。人々はそれぞれに事情を抱え、奇跡を期待し、ある者は好奇心から、ある者は切実な願いをもって、イエスに触れようとしていました。イエスは、時間的にも心理的にも余裕のない状況に置かれていたのです。
 通常であれば、最優先すべきはヤイロの娘の命でしょう。立ち止まることは許されない、そう考えるのが常識です。しかし、ここでも常識を破る者が登場するのです。名も記されていない一人の女性が、イエスに近づこうとして来たのです。
 神の働きというものは、時々、私たちが考える「優先順位」や「常識」「効率」というものを超えて起こされるのです。そのことを、この物語は最初から静かに示しているのです。
 イエスは、群衆に押されながらも、単なる群衆の一部として人々を見ていたのではありません。一人ひとりの叫びに耳を傾ける方として、その場に立っておられたのです。この混乱と切迫の中にこそ、神の国の現実が見え隠れしていたのです。

【名もなき女性の苦しみ】
 さて、今日の聖書箇所に登場する中心的な人物は、もちろんイエスです。しかし、もう一人の中心的な人物が、名もなき女性なのです。当時の女性の地位というものはとても低いもので、物の数にも入れられないものでした。
 マルコによる福音書だけを見ても、名前の出てくる女性はヘロデ王の妻へロディアとイエスの十字架と復活の場面に登場するマグダラのマリア、ヤコブとヨセの母マリア、サロメ、それくらいしかいません。他にも何ヶ所か女性たちが登場しますが、いずれも名前は書かれていないのです。
 この物語の中心に登場するのは、十二年間、出血の止まらない病に苦しんでいた女性です。十二年という年月は、単なる数字以上の重みを持っています。彼女の人生の相当な部分が、病と共にあったということです。
 当時のユダヤ社会において、出血は宗教的に「汚れ」とされました。レビ記の規定によれば、彼女は常に汚れた存在と見なされ、人との接触を制限され、礼拝共同体からも事実上排除されていたのです。
 彼女は多くの医者にかかり、苦しい思いをし、持っているものをすべて使い果たしました。それでも病は癒されるどころか、かえって悪くなるばかりでした。肉体的苦痛に加え、経済的困窮、社会的孤立、そして「神に見捨てられているのではないか」という宗教的・霊的苦悩が、彼女を深く追い詰めていたことでしょう。
 そのような彼女が、群衆の中に身を潜めるようにしてイエスに近づきます。本来なら、人に触れること自体が禁じられている存在です。見つかれば非難され、排除される危険もありました。それでも彼女は、自分の存在を隠し、背後からそっと近づく道を選びます。
 声を上げて助けを求めることもできず、正面から願い出る勇気も持てなかった。彼女の行動は、信仰の強さというよりも、追い詰められた者の必死の賭けだったと言えるかもしれません。
 彼女は社会の周縁に追いやられ、誰にも顧みられない存在でした。しかし、まさにそのような人の物語を、マルコは丁寧に描き出します。神の救いの物語は、中心ではなく、周縁から語られることがあるのです。

【女性の信仰】
 彼女が心の中でつぶやいた言葉は、非常に象徴的です。「せめて、あの方の服に触れさえすれば、救われる」ここには、イエスご自身との人格的な関係というより、「聖なる力を帯びたものに触れれば癒される」という、当時広く見られた異教的・呪術的発想が色濃く反映されています。
 ただ、このような呪術的な癒しを求める信仰は、現代においても、あらゆる宗教の中に存在しています。キリスト教の中にも、特に癒しを強調するグループの中にはよく見られる発想です。
 しかし、当時のユダヤ教においても、呪術的な癒しの信仰というものは、中心的なものではなく、異教的であり、未熟な信仰として、認められるものではなかったと考えられます。
 しかし、現実に目を移すと、この女性がイエスの服に触れたその瞬間、彼女の体は癒されます。血の源が乾き、病が治ったことを、彼女自身がはっきりと感じました。同時に、イエスもまた、自分の内から力が出て行ったことに気づかれます。
 ここで驚くべきことは、イエスが歩みを止め、「わたしの服に触れたのはだれか」と問いかけたことです。当時のユダヤ教の信仰からすれば、異教的、呪術的な出来事だと考えられることですが、イエス自身も力が出ていったと感じたというのです。
 このイエスの質問に対して、弟子たちは現実的な反応をしています。31節を見ると「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」と答えています。
 しかし、イエスは押し迫ってきた群衆が偶然、イエスの体や服に触れたことと、必死な思いをもってイエスの服に触れたことを区別されます。イエスは、癒しを「出来事」として終わらせるのではなく、ここから始まる「関係」として完成させようとされたのです。
 名もなき女性は、恐れおののきながら進み出て、すべてを打ち明けます。癒された事実だけでなく、これまでの苦しみ、隠れて行った行為、その動機のすべてを語ったことでしょう。イエスは、彼女の信仰の未熟さを責めることも、異教的要素を指摘して退けることもしませんでした。むしろ、彼女を群衆の前に立たせ、存在を回復させるのです。

【「娘よ」と呼ぶイエス】
 そして、イエスは彼女にこう言われます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」。ここで初めて、彼女は「娘」と呼ばれます。これは単なる呼びかけではありません。
 彼女は共同体からも排除された存在でしたから、きっと「お前」というような呼ばれ方しかしてこなかったと思います。しかし、イエスの呼びかける「娘」という言葉は「お嬢さん」といったような丁寧な呼びかけなのです。ある英語の訳では「My Daughter」と訳されていました。
 長い間、共同体から排除され、その存在すら認められなかった女性に向かって、丁寧な言葉使いで「お嬢さん」と呼びかけ、神の家族の一員として公に受け入れますという、イエスの宣言なのです。
 さらに注目すべきは、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉です。それは、彼女の信仰が完全だったという意味ではありません。イエスを頼り、すがりついた、その方向性が、彼女を救いへと導いたのです。教理的な正確さや神学的な正確さより「誰を頼ったのか」が問われているのです。
 イエスは、異教的混じり気のある信仰であっても、真剣に助けを求めて来る者を拒まれません。むしろ、その人を立ち止まらせ、語らせ、名を与え、尊厳を回復させます。癒しは身体だけに留まらず、社会的・霊的な回復へと広がっていくのです。
 私たちの信仰もまた、時に未熟で、混乱し、形ばかりのものかもしれません。それでも、イエスは私たちが小さな手を伸ばすなら、その手を見逃されない方です。群衆の中の一人、その他大勢の一人としてではなく「あなた」として呼び止めてくださるのです。その憐れみ深いまなざしの中に、私たちは今日も生かされているのです。

祈 り
賛美歌   新生552 わたしが悩むときも
主の晩餐  
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏