前 奏
招 詞   イザヤ書63章9節
賛美歌   新生 26 ほめたたえよ造り主を
開会の祈り
賛美歌   新生281 み座にいます小羊をば
主の祈り
賛美歌   新生137 うみべの野で
聖 書   マルコによる福音書10章32~45節
                        (新共同訳聖書 新約P82)
宣 教   「苦難の予告」    宣教者:富田愛世牧師
【受難予告】
 マルコによる福音書10章32節から始まる場面は、どこか緊張感の漂う情景です。イエスは弟子たちを連れてエルサレムへと向かっていました。「都へ上って行く」というその歩みは、単なる旅ではありませんでした。当時のエルサレムは宗教と政治の中心地であり、権力が集中する場所です。そこに向かうということは、歓迎よりも対立を意味していました。
 イエスはすでに二度、自分が苦しみを受け、殺され、しかし三日目によみがえることを語っていました(8章31節、9章12節)。それでも弟子たちは、その言葉の意味を十分に理解していなかったのです。彼らの心には、「これから何か大きな成功が待っているのではないか」という期待があったからです。
 しかしこの日、イエスの様子はいつもと違っていました。先頭に立ち、迷いのない足取りで都へ向かう姿は、覚悟を決めた人の背中でした。その背中を見ながら、弟子たちは驚き、他の人々は恐れを覚えました。「何かが起ころうとしている」。そんな空気が漂っていたのです。
 その緊張の中で、イエスは十二人を呼び、これから起こることを具体的に語りました。裏切られ、引き渡され、あざけられ、鞭打たれ、殺される。しかし三日後によみがえる、と言われるのです。
 イエスはどのような状況が待ち受けているのかを知らずに行くのではありません。これから起こることを知りながら、あえてその道を歩んでいるのです。私たちは苦しみが予想できる道を、できるだけ避けようとします。しかしイエスは違いました。逃げることも、力でねじ伏せることもできたはずなのに、あえて苦しみへと進んでいかれたのです。
 それは、自分のためではありませんでした。人の弱さ、裏切り、恐れ、自己中心、そうしたものをすべて引き受けるためでした。イエスの歩みは、勝利へ向かう栄光の道ではなく、最後まで愛し抜く歩みだったのです。

【ヤコブとヨハネ】
 そんな重い空気の中で、場違いとも思える出来事が起こります。ヤコブとヨハネがイエスのもとに来て「あなたが栄光の座に着くとき、私たちを右と左に座らせてください」と願い事をするのです。
 ヤコブとヨハネは、イエスの最初期の弟子でした。特に重要な場面では、ペテロと共に三人だけがイエスのそばにいました。9章を振り返ると、山の上でイエスの姿が輝いた場面にも立ち会っています。彼らは自分たちが「特別な存在」だと思い始めていたのかもしれません。
 人は、選ばれていると感じるとき、いつのまにか「優れている」と思い込んでしまうことがあります。長く関わっている、よく働いている、近くにいる、そうした理由で、自分には当然ふさわしい地位がある、と考えてしまうのです。
 彼らの願いは、とても人間らしいものです。努力が報われたい。報酬がほしい。認められたい。当たり前の思いです。私たちの心にも同じ思いがあります。会社でも、学校でも、家庭でも、「自分はこれだけやっている」と思えば思うほど、正当な評価を求めたくなるものです。
 しかしイエスは静かに「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっているのか」と問いかけます。そして「私が飲む杯を飲むことができるか」と言われました。それは苦しみの象徴です。栄光の座を求めるなら、その前に通る道がある、と示されたのです。
 ヤコブとヨハネは「できます」と答えました。しかしその言葉の重みを、本当の意味で理解してはいなかったのです。成功のイメージはあっても、犠牲の現実は見えていなかったのです。
 私たちも同じです。結果は望みますが、そこに至る過程の痛みは避けたいと思います。けれどもイエスは、表面の成功よりも、その人の内側の変化を大切にされます。高い場所よりも、深い歩みを求めておられるのです。

【神の国の価値観】
 イエスは弟子たちを集め「この世では、支配する者が力をふるい、大きいと思われる人が権威を振りかざす。しかし、あなたがたの間ではそうであってはならない」と、はっきりと言われました。
 ここで語られているのは、まったく逆転した価値観です。この世界では「上に立つこと」が成功の証です。より多くの人を従わせ、影響力を持ち、注目されることが力の象徴です。どこかの国の大統領は、自分はクリスチャンだと言いながら、多くの人を従わせ、注目され。力を持っていると、おごり高ぶっています。
 しかしイエスは「大きくなりたい者は仕える人になりなさい。先頭に立ちたい者は皆のために働く人になりなさい」と語られるのです。
 これは理想論ではありません。イエス自身がその通りの生き方をされたのです。「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来た」と語り、自らその通りに生きたのです。
 ここで言われる「仕える」とは、単なる親切やボランティア精神ではありません。相手の尊厳を大切にし、その人が生きる力を取り戻すために自分を差し出す姿勢です。見返りを求めない態度なのです。
 私たちは無意識のうちに「どれだけ得をするか」で物事を判断します。しかしイエスの示す世界では、「どれだけ与えたか」が基準になります。そこでは、目立つ人よりも、陰で支える人が尊ばれます。
 この価値観は、すぐには受け入れにくいかもしれません。効率や成果が何よりも大切だとされる現代社会では、仕えることは「負け組」の姿であり「損」に見えるからです。しかし、愛は効率では測れません。人を本当に支えるのは、数字ではなく、心の姿勢なのです。

【仕える者】
 イエスは最後に「多くの人のために自分の命を差し出すために来た」と言われました。これは、十字架を指し示す言葉です。
 十字架は、この世の価値観では失敗なのです。「負け組」そのものなのです。力もなく、抵抗もせず、ただ受け入れていく姿は、弱さの象徴のように見えます。しかしそこには、最後まで人を見捨てない愛がありました。
 私たちは、仕えているつもりでも、どこかで計算しています。「これだけやったのだから認めてほしい」「これだけ尽くしたのだから報われたい」。その思いは自然なものです。しかしイエスは、その奥にある私たちの弱さを知っています。
 それでもなお、イエスは仕え続けます。失敗する人にも、裏切る人にも、理解しない人にも、変わらぬまなざしを向け続けます。その姿は、一見すると「非効率」に見えるかもしれません。しかし、そのまなざしに触れた人の人生は、確かに変えられてきたのです。
 歴史を振り返ると、イエスのまなざしに触れ、変えられた人をたくさん見いだすことができます。有名な「アメイジンググレイス」の作者、ジョン・ニュートンは奴隷船の船長でしたが、嵐の中、船が沈みそうになったとき、祈りの中でイエスに出会い、その人生は180度変えられました。そして、船を下りて牧師になり、アメイジンググレイスを作詞するまでに変えられたのです。
 本当の強さとは、上に立つことではなく、下から支えることです。本当の大きさとは、多くを持つことではなく、多くを与えることです。
 私たちの歩みもまた、この価値観に招かれています。誰かに認められるためではなく、誰かを生かすために生きる。そのとき、目立たなくても、確かに意味のある人生が築かれていきます。
 イエスの歩まれた道は、決して華やかではありませんでした。しかしその道こそが、世界を静かに変えていく力となったのです。

祈 り
賛美歌   新生623 時は満ちて
主の晩餐 
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷  
後 奏