前 奏
招 詞   出エジプト記13章3節
賛美歌   新生 26 ほめたたえよ造り主を
開会の祈り
賛美歌   新生176 主は豊かであったのに
主の祈り
賛美歌   新生397 み神を愛する主のしもべは
聖 書   マルコによる福音書14章12~26節
                         (新共同訳聖書 新約P91)
宣 教   「最後の晩餐」    宣教者:富田愛世牧師
【用意された場所】
 皆さんには「忘れることのできない食事」というものがありますか。それは、必ずしも豪華な料理と言うことではなく、その食卓には忘れられない時間が流れていたという、そんな経験があるのではないでしょうか。
 例えば、久しぶりに家族が集まった日の食事。あるいは、長い間一緒に働いた仲間との送別会。また、遠くへ旅立つ友人と交わした最後の食事。そういう食事は、何年か経ってから、ふと思い出すことがあります。「あの時、あんな話をした」「あの人はあんな顔をして笑っていた」そんなふうに、その時の空気や会話まで思い出されることがあります。
 人にとって食事という時間は、ただお腹を満たすだけの時間ではありません。食卓というのは、人が心を開き、言葉を交わし、互いの存在を確かめ合う場所でもあります。だからこそ大切な話は、食卓で語られることが多いのです。
 今日読んでいただいた聖書の箇所も、一つの食事の場面です。それは、イエスが弟子たちと共に囲んだ食卓でした。しかし、この食事は普通の食事ではありませんでした。イエスにとって、弟子たちと過ごす最後の食事だったのです。
 そしてその席で、イエスは突然「あなたがたの中に、わたしを裏切る者がいる」と言うのです。楽しいはずの食卓の空気が一気に変わりました。そして弟子たちは口々に「まさか、わたしではないでしょう」と言うのです。
 この場面は、遠い昔の宗教の話ではありません。そこには、人と人との関係の中で起こる信頼、弱さ、そして許しという、とても人間らしい姿が描かれています。今日はこの食卓の出来事を通して、イエスが弟子たちとどのような時間を過ごし、そこにどんな思いが込められていたのかを見ていきたいと思います。
 イエスが生きていた時代、ユダヤの人々には一年の中で特に大切な祭りがありました。それが「過越の祭」と呼ばれる祭りです。この祭りは、人々が昔の出来事を思い出すためのものでした。はるか昔、彼らの祖先はエジプトという国で奴隷生活をしていました。しかしそこから解放され、新しい道へと導かれたという出来事がありました。人々はこの出来事を忘れないために、毎年特別な食事を囲んでその物語を語り継いでいたのです。
 イエスもまた、この祭りの食事を弟子たちと共にしようとしていました。そこで弟子たちに「町に行って、食事の場所を用意しなさい」と言います。ところが、弟子たちが町へ行くと、イエスが言った通りの出来事が起こります。水がめを持った人に出会い、その人についていくと、大きな部屋が用意されていたのです。そこはすでに食事ができるよう整えられていました。
 この出来事を読むと、まるで道があらかじめ備えられていたかのようにも感じられます。イエスは、これから起こる出来事を知りながら、静かにその時を迎えようとしていたのです。
 この食事は、イエスにとって弟子たちと過ごす最後の食事でした。だからこそ、その場所はとても大切な場所だったのです。
 私たちの人生にも「いつの間にか用意されていた場所」があるのではないでしょうか。思いがけない出会い、思いがけない出来事。その時は偶然のように思えても、後になって振り返ると「あの時あの場所があったから今がある」と思えることがあります。この夜の食事も、そのような備えられた場所で始まろうとしていました。

【わたしではないでしょう】
 食事が始まった時、イエスは突然「あなたがたの中に、わたしを裏切る者がいる」と言いました。この言葉は、弟子たちにとって大きな衝撃でした。彼らは長い間イエスと共に旅をしてきました。同じ道を歩き、同じ食事をし、多くの時間を共に過ごしてきた仲間です。その仲間の中に裏切る者がいると言われたのです。
 弟子たちは驚き、そして悲しみながら「まさか、わたしではないでしょう」と言いました。ただ、ここで興味深いのは、誰も「絶対に私ではありません」と言い切らなかったことです。
 人は普通、自分が疑われたら強く否定するものです。しかし弟子たちはそう言いませんでした。それは、自分の弱さをどこかで知っていたからかもしれません。人は、自分では強いと思っていても、いざという時には恐れや不安に負けてしまうことがあります。正しいと思っていたことを貫けないこともあります。
 弟子たちは、自分の心の弱さを少しずつ知っていたのではないでしょうか。だからこそ「私ではない」と言い切ることができなかったのかもしれません。この言葉には弱さがあります。しかし同時に正直さもあります。自分の弱さを認めることは簡単なことではありません。しかし弟子たちは、その弱さを隠そうとはしませんでした。
そして実際、この後の出来事の中で、弟子たちは恐れて逃げてしまいます。あの時「まさか、わたしではないでしょう」と言った人々も、結局イエスを残して去ってしまったのです。この場面は、弟子たちだけの物語ではありません。私たち自身の姿でもあるのです。

【共に食事をする仲間】
 イエスは続けて「それは、わたしと一緒に鉢にパンをひたしている者だ」と言いました。当時の食事では、大きな皿に食べ物が盛られ、同じ皿にパンをひたして食べることがありました。それはとても親しい関係を示す食べ方でした。
 つまりイエスは「遠くの誰か」ではなく「今ここで一緒に食事をしている仲間」の中にその人がいると言ったのです。裏切りというものは、敵からではなく、近くにいる人との関係の中で起こるものです。
 この言葉を聞くと、多くの人はユダという弟子を思い浮かべます。確かにイエスを引き渡したのはユダでした。しかし福音書を読んでいくと、弟子たち全員がイエスを置いて逃げてしまいます。つまり、この食卓に座っていた人々は、完璧な人たちではありませんでした。むしろ弱さを抱えた人たちの集まりだったのです。
 それでもイエスは、彼らと共に食事をしました。人は、「信頼できる人とだけ関わりたい」と思います。しかし現実には、人は皆どこか弱さを抱えています。それでも共に食事をし、共に時間を過ごす。その中で人は支え合って生きていくのです。この食卓は、弱さを抱えた人たちが共に座る場所でした。

【わたしのからだ、わたしの血】
 食事の途中、イエスはパンを取り、それを裂いて弟子たちに渡しました。「取りなさい。これはわたしのからだである。」さらに杯を取り、皆に回して「これは多くの人のために流される、わたしの血である。」と言いました。
 弟子たちは、この言葉の意味をその場では十分に理解できなかったでしょう。しかし後になって、この言葉の意味を思い出しました。イエスが十字架で死んだ後、この食事の言葉が心によみがえったのです。
 それ以来、弟子たちはこの食事を記念として守り続けました。パンを分け、杯を回しながら、あの夜の出来事を思い出したのです。その時、彼らはもう一つのことも思い出したはずです。それは、自分たちがイエスを置いて逃げてしまったという事実です。
 この食事は、自分たちの弱さを思い出す時間でもありました。しかし同時に、弱さを知っていてもなお共に食事をしてくださったイエスの姿を思い出す時間でもあったのです。
 最後に、こんな話があります。
ある人が、年を重ねてから昔のアルバムを見ていました。そこには若い頃の写真がたくさんありました。友人たちと笑っている写真、家族で食卓を囲んでいる写真。その中に、特に心に残る一枚がありました。若い頃、仲の良かった友人たちと食事をしている写真です。
 しかしその人は、その写真を見ながら、少し複雑な気持ちになりました。その中には、途中で関係が途切れてしまった人もいたからです。自分の言葉で傷つけてしまった人もいました。もっと大切にできたはずなのに、そうできなかった関係もありました。
 けれどもその人は、写真を見ながら「あの時、確かに私たちは同じ食卓を囲んでいた」と思ったそうです。その時間は消えることのない大切な時間だった、と。
 イエスと弟子たちが囲んだあの夜の食卓も、まさにそのような食卓でした。そこには、弱さを抱えた人々が座っていました。裏切ってしまうかもしれない人々が座っていました。それでもイエスは、彼らと共にパンを分け、杯を回しました。それは、人の弱さがあっても、関係が終わるわけではないということを示す食卓でもあったのです。
 私たちもまた、弱さを抱えながら生きています。けれども人生のどこかで、「共に食卓を囲んだ時間」が私たちを支えてくれることがあります。あの夜の食卓の物語は、遠い昔の出来事ではありません。人が弱さを抱えながら、それでも共に生きていくことを静かに語り続けている物語なのです。

祈 り
賛美歌   新生461 迷い悩みも
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷  
後 奏