聖書 マタイ福音書 20:1~16 宣教題 神の御心 牧師 中田義直
日本語の表現として使われている「目からうろこ」という言葉は、聖書の中から生まれた言葉です。福音、洗礼といった言葉もいろいろな場面で用いられています。同様にいわゆる、金言、格言として用いられている言葉の中にも聖書の言葉があります。日本の慣用句になっていたり、格言になっているように聖書の言葉には、多くの人が「本当にそうだ」「心にしみる言葉だ」と素直に受け止めることのできる言葉がある一方で、よくわからない言葉、素直に受け入れることのできない言葉もあるでしょう。
今日の聖書の箇所はブドウ園の労働者の譬えといわれる有名なイエス様のたとえ話です。ところで、聖書は私たちの心を映す鏡だといわれることがあります。そして、この譬えは鏡ということがよく表れています。の譬えを読んで、神様の憐みの深さに感動する人もいれば、とても不公平に感じてしまう、納得できないと思う人もいるでしょう。自分自身をどのように思っているか、それによって受け止め方が変わってきます。具多的に言えば、この譬えの中の誰と自分を重ねて読むかによって、受け止め方が変わってくるでしょう。朝から働いた人なのか、最後の一時間働いた人なのか、どちらに自分を重ねるかで全く違う印象を持つことでしょう。今まで何人かの方と、自分をだれに重ねるかということを話した時、一番多かったのが、9時ころ、もしくは12時ころでした。もしかしたらそれは私のような中高年の日本人らしい答えなのかもしれません。また、一人だけ自分を主人とお重ねて読んでいた人がいました。その人は、自分を神様だと思っていたわけではありません。会社の経営者の方でした。そして、「経営者として自分には、このようなことはできない。こんなことをしていたら会社はやっていけない」と話しておられました。そして、神様の御心にかなうような経営者になるにはどうしたらよいのだろうかと、本当に真剣に考えておらええました。
この譬えは、天の国はどのようなところかを示すために語られたイエス様の教えです。そして、この国というのは場所や地域的な領域を示すとともに、支配している領域という意味があります。ですから、天の国というのは、神様の御心、神様の思われていることが実際に行われている場所を示しているのです。この譬えの最後で主人は 「20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。」といっています。このように、神様がご自分の思われていること、ご自分のなさりたいことを行うところ、それが、天の国なのです。私たちは主の祈りの中で「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。これは、この地上が、天国のようでありますようにとの祈りです。
そして、天国がこのようなところであるというこの譬えは、自分を朝からだれにも声をかけてもらえず、どうやって生きていくことができるだろうかと不安になっている人、自分の価値を認めてもらえず悲しい思いを抱いている人にとっては、本当に憐れみ深い、そして気前のいい素晴らしい主人に思えたことでしょう。一方、毎日、一生懸命働いている、働くことができている人にとって、この主人のことが横暴な人と思えたかもしれません。確かに約束通りだし、自分の持ち物を自分のしたいようにするのも文句は言えません。しかし、一時間しか働かない人に気前よくするなら、朝から熱い中、一日中働いた自分たちにも気前良くしてほしい、そんな風に思ったとしてもおかしくありません。けれども、これが神様の御心の行われるところ、天の御国だとイエス様はおっしゃるのです。
ところで、朝から働いた人に約束し、夕方の一時間だけ働いた人たちに支払われた、一デナリは、当時の労働者の一日分の賃金でした。ですから、朝から働いたひとは、正当な報酬と思って主人の誘いに応えて雇われました。一日の働きの正当な報酬、そして、一日を生きてゆくために必要な報酬、それがすべての人たちに支払われたのです。ブドウ園の主人は、朝から働いたものには正当な賃金を与え、夕方一時間働いたものにはその日一日を生きるために必要な賃金をあたえました。それが主人がしたいと願っていたことなのです。そして、このことが示しているように、私たちの父なる神様は人の目には価値が違うように思える一人一人を等しく価値あるものとして愛しておられるのです。
ブドウ園の労働者の譬え、これは不思議なたとえ話ともいえるでしょう。そして、この物語で、もし誰も自分をほかの人と比べることがなかったら、この物語に登場した労働者の中に、不幸な人はいないのです。しかし、人は自分と他者を比べてしまいます。この主人がもし、朝早くから働いたものから先に賃金を渡してさっさと帰らせてしまっていたら、そして、最後の者にこっそり1デナリオンを渡していたなら、最初に来たものはそれに気づいて自分と比べる時まで、心を乱さずに済んだのかもしれません。けれども、主人は後から来たものに先に、朝早くから働いているものにわかるようにして賃金を渡しました。それは、この譬えを通して、同じように賃金を支払うこと、それが主人の思いなのだということをはっきりと示すためでしょう。そして、それが天の国で神様のなさることなのです。
なぜなら、神様にとって、ご自身の作品である私たちを比べて優劣をつけることは御心ではないからです。一人一人、比べることのできない大切な存在であること、それが、すべての者たちに支払われた1デナリオンがあらわしていることなのです。
ー祈り-
主なる神様、こうして共に主の日の礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。
神様、あなたは私たち一人一人を比べることなく、愛していてくださいます。あなたにとって、私たち一人一人がかけがえのない存在だからです。しかし、私たちは自分と他者とを比べたり、人と人とを比べて喜んだり、悲しんだりしてしまいます。傲慢になてり、劣等感にさいなまれます。天の御国に行く日まで、私たちはそのような比較から逃れることはできないかもしれません。だから、あなたは、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と教えてくださいました。それは、あなたが私も、隣人も等しく愛しておられるからです。
主よ、聖霊によって私たちを導いてください。そして、まっすぐにあなたを見上げることができますように助けてください。
この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン
ー聖書- マタイによる福音書20章1節~16節
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」