前 奏 招 詞 サムエル記上21章7節 讃 美 新生120 主をたたえよ 力みつる主を 開会の祈り 讃 美 新生 56 朝風しずかに吹きて 主の祈り 讃 美 新生507 主の手に委ねて 聖 書 マルコによる福音書2章23~28節 (新共同訳聖書 新約P64)
「戒律より生活」 マルコ福音書2章23~28節
宣教者:富田愛世牧師
創世記を読むと、人間の生活について、その起源について様々なことが分かります。人間と自然、人間と動物、そして人間同士の関係について1章から2章で語られています。この頃どのような生活をしていたかというと、極端な言い方をすれば、遊んで暮らしていたようなのです。
この後、3章に入ると罪を犯し、エデンの園を追放され、額に汗して働かなければならなくなります。4章20節からは最初の職業について語られています。つまり働くということは、見方によれば罪の結果だと捉えることもできるのです。
聖書で語られる休みは、安息日と深く関係しているので、現代の休みとは、ニュアンスが違うようにも感じますが、本来の休みということは、神と共に過ごすことを指しているのではないかと私は思っているのです。このような流れの中で、十戒の第4戒にあげられるくらい休み、安息ということは大切だったのです。ですから、ユダヤ教では安息日規定と呼ばれる規定集が作られ、細かく規定されたようです。
私はこの安息日という考え方を、忙しい現代社会に生きている私たちこそが、真剣に考えなければならないと思っています。忙しいから休む必要があると言うのはその通りですが、その休み方に問題があるように思えるのです。多くの人は休みの日に自分のしたいことをする。それでよいかも知れませんが、本当にしたい事をしてリフレッシュされているのか疑問に思うことがあるのです。
体のリフレッシュと心のリフレッシュについては様々なところで語られ、それぞれに実践していると思いますが、霊のリフレッシュについては、あまり関心を持たないように思えるのです。人間とは肉体と精神と霊から成っていると私は考えていますので、これらがバランスよくリフレッシュされなければ、本当の意味での休みにはならないのではないかと思っています。
【安息日論争】
さて、今日の箇所は「安息日論争」と呼ばれ3章6節まで続いていますが、今日は前半だけを見ていきます。そして、この論争はイエスの語る福音を理解するうえで非常に重要なポイントになっているのです。
23節を見るとイエスと弟子たちとは安息日に麦畑の中を歩いておられました。この歩くということに関しても、規定では800mくらいしか歩いてはいけなかったようです。地図アプリで調べると教会からマルエツまでが700mですから、本当に少ししか歩けなかったと思います。
しかし、ここでは歩く距離については何もいわれていません。多分これに関しては「そうは言っても無理だ」という暗黙の了解があったのではないかと私は思っていますが、ある神学者は、この後に出てくるファリサイ派の人々もイエスと弟子たちの後をつけていて、自分も同じ規定違反をしたので、歩く距離については何も言えなかったのではないかと言うのです。こういう所にイエスをめぐる批判者たちの滑稽なところが出てきておもしろいと思うのです。
そして、ここでは弟子たちが麦の穂を摘みはじめたことが問題にされているのです。麦の穂を摘むということは、安息日規定で禁じられていた「収穫作業」をしたとみなされたようです。
この非難に対して、イエスは旧約聖書の出来事を引き合いに出しています。サムエル記上21章2~7節にこの記事が出ています。詳しいことは省き、要は空腹だったダビデと共の者が、祭司しか食べてはいけないパンを手に入れ、空腹を満たしたということです。
私は旧約聖書にこのような記事が出てくるということが、神の粋な計らいだと感じるのです。私たちのイメージには、旧約聖書は堅苦しい律法や規定ばかりで、そこに登場する神も裁きや怒りをあらわにする厳しいイメージが強いのですが、実はこういった例外的なことや矛盾する出来事を伝えているのです。
ダビデと共の者は、明らかに律法の規定を破っています。しかし、神は規定を破ったからと言って、ダビデと共の者を罰したりはしていません。かえってこの後、ダビデに祝福を与えておられるのです。一体どういうことなのでしょうか。
【神の意図】
答えは簡単です。それは、神にとって一人ひとりの人間がとても大切な存在だという事なのです。人間は弱い存在ですから、何の規制も無く自由気ままにしなさいと言うと、何をしていいのか分からなくなります。そして、不安になるのです。不安になった時、そこに付け込んでくるのがサタンの誘惑なのです。ですから、ある程度の規制が必要になってくるのです。
この安息日規定もそういう中から出てきたはずです。シュラッターという神学者がこう言っています。神の考え方というのは「人間が第一であり、次が、その人間に、神を忘れないための助けになり、人間がこの世の業にはまりこんでしまわないよう、幸いにする安息日である」
これに対して、ファリサイ派の考え方は「安息日が第一である。人間は二の次である」ということなのです。そして、この考え方は信仰的な考え方ではなく、神を冷酷な主人のように思っている恐れと、神の好意を自分の献げ物で買い取ろうとする不信仰な考えである。と断じているのです。
ファリサイ派の人々も最初から、このように考えていた訳ではないと思うのです。正直なところ彼らは非常に真面目で熱心です。その真面目さ、熱心さは、私など比べようも無いほどです。しかし、時間の経過と共に、目的を忘れ、守ることが第一になってしまったのです。守ることが目的になってしまうと、それに反する者、守らない者を裁くようになってしまうのです。
NTDという注解書に「律法は人間に対する神の賜物であり、階段の手すりにも比すべきものである。つまりこれ<手すり>は、その助けを受けずに階段を上っていくことを誰にも妨げないが、これを必要とする人には、階段から墜落するのを防ぐ役割を果たす。」と書かれていました。
ファリサイ的に手すりを捉えるなら、何のために手すりが付けられているかは、もはや関係なく、手すりを使わずに階段を上り下りすると、それは規定違反として罰せられることになるのです。
【愛する人のために】
律法とは、神が愛する者、つまり人間のために作ってくださった基準なのです。なぜなら、人間は神に作られた被造物なので、絶対的な価値基準を持つことができないからです。
そして、人間はその律法を元に規則を作っていったのです。それは律法を運用するために必要な、正しいことでした。しかし、規則が第一のものになってしまうならば、そこに間違いが起こってしまうのです。
第一にしなければならないものは神そのものなのです。そして、神ご自身が基準なのです。ダビデの話を見ても、規則を第一にするならば、ダビデは規則を破りましたから罰せられて当然です。しかし、規則以上の存在、絶対的な基準としての神がそれを赦されるならば、これ以上の判断基準はないわけです。
そして、新約聖書の時代に入り、神はその絶対的な基準として、ひとり子なるイエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。つまり、イエスが律法そのものであり、絶対的な基準なのです。イエスに向かって「律法ではこう言っている」などと言うことは、本末転倒した問いかけなのです。
イエスの語った福音はマタイ22:37~40にあるように『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』と『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に凝縮されるのです。神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する生活をするならば、神の祝福を実感することが出来るのです。
讃 美 新生621 われに従えとイエスは招く 献 金 頌 栄 新生671 ものみなたたえよ(A) 祝 祷 後 奏