宣教題 父なる神に至る道
聖書  ヨハネ 14:6 
牧師 中田義直

 二十年程前ですが、NHK文化センターの企画した人間の死について考えるセミナーに通ったことがありました。いろいろなことを学び、考えさせられたのですが、その中の何人かの講師の方が「生と死というのは断絶ではなく、連続している」と話しておられました。人間の詩に立ち会うホスピスのチャプレンの方は、「死というのは命がプツンと消えてなくなるというよりも、スーッとその場を離れていくように、まさに静かに旅立っていくように思える」と話してくださいました。
 命の離れた肉体は、冷たくなり、やがて朽ちていきます。しかし、魂は消えてなくなるのではないと、私たちクリスチャンはそのように信じています。聖書は人間の創造の場面を記しています。神様は土から人間の形を作り、その鼻にご自身で命の息を吹き入れてくださいました。そして、人は生きるものとなりました。聖書が書かれたヘブライ語では、息、風、そして、霊はみな同じネフェッシュという言葉を用いています。土から作られた肉体は、土にかえります。そして、神様から吹き入れられた命の霊、魂は神のもとに帰るのです。しかし、聖書は人間の罪の現実を厳しく示しています。それは、人間が神のようになりたいという誘惑に負け、神様から注がれている愛と信頼を裏切ってしまったことによる「罪」です。
この罪によって、私たち人間は神様との関係を壊してしまったのです。そして、この関係を再び回復させるためにイエス様は私たちの世に来てくださいました。
 イエス様は弟子たちに「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と話されました。聖書は、羊飼いと羊の関係に喩えて、神様と人間の関係を示します。そして、ここではイエス様ご自身が羊飼いとなってくださるというのです。羊飼いとなって、私たちを導いてくださるとイエス様は弟子たちに語り掛けてくださいます。羊飼いは、羊を守り、食べ物のある草原や渇きをいやす水辺へと羊を導きます。羊たちが生きるために、正しい場所に羊飼いは羊を導きます。それは、命に至る道です。そして、私たちはイエス様の導きの中で神様の身許へと帰ることができるのです。イエス様は告別説教の中で弟子たちに「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と語っておられます。イエス様は私たちが神様の身許へ帰ることができるように、神様のよって土くれに過ぎない肉体に吹き入れられた命の息、命の霊が帰るべきところ、神様のもとへと帰るための「道」となってくださったのです。それは、十字架の死による「道」、命の込められた愛による「道」です。
 そして、この道によって私たちが帰る場所をダビデは詩篇23編に描いています。それは、神とともにつく食卓、イエス様と共にパンを分かち、杯を分かち合う食卓です。
 私たちは、やがて神様のご計画が完成するとき、先に旅立った方々と共に主の食卓につくのです。イエス様はこの食卓へと私たちを導いてくださいます。良き羊飼い、イエス様を信じその導きにゆだね、イエス様が命をもって備えてくださった、真理の道、命に至る道を歩んでまいりましょう。

 -祈り-
 主なる神様、あなたの導きの中でここに呼び集められ、共に礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。
 今朝、私たちはこの世の旅を終えて平安な眠りのうちにある方々を覚えながら礼拝をささげています。主よ、私たちはそれぞれあなたの定められたときに、この世の旅を終えます。そして、それはすべての人に等しく訪れます。私たちもその時を迎えます。主よ、やがて私たちはあなたの身許で先召された方たちとともに見前に集います。その再会の希望の中を歩む私たちでありますように。主よ、御国に至る道、イエス様の備えてくださった道をそれてゆくことがありませんように、聖霊によって助け導いていてください。
 この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

聖書
14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。