聖書  エフェソ 1:8~10  宣教題 神の計画により 説教者 中田義直

アドベントクランツの三本目のろうそくに火がともりました。クリスマス、12月25日前の四回の日曜日に一本ずつ火がともされます。そして、25日にはこのクランつの真ん中にロウソクが置かれて、そこに火がともされます。

最近の日本では11月半ばのハロウィーンが仮装パーティーのようにして騒がれていますが、そのハロウィーンが終わるとすぐにクリスマスの飾りつけが始まります。しかし、カトリック教会などのように、教会歴を重視する教会が社会に対して強い力を持っていた時代のアドベントは、お祝い事が禁止されるなど心を静かにして過ごす期間でした。

現代社会の最大の偶像は、富をもたらす神マモンであるといわれます。言い換えれば、現代社会で最も力をふるっている偶像は「経済至上主義」といってもよいでしょう。それは、わかりやすく、そして、時間をおかずに私たちの生活を豊かにする「力」であり、私たちの生き死にを支配する「力」だからです。その力は、クリスマスからイエス・キリストを消し去ります。イエス・キリストの誕生を祝う日であるにもかかわらず、より広く大きな経済的な成果を得るために、主役であるはずのイエス・キリストをその場から追い出します。そして、人々は「誕生を祝う」ということよりも、誕生パーティーで「私が楽しむこと」を優先します。誰の誕生日でも構わない、その日に自分がおいしいものを食べ、ほしいものを手に入れ、意中の人と共に過ごすことを目的とします。そして、私たちもまた、そのような偶像が与えてくれる誘惑に魅力を感じていることを否定することができないように思うのです。

だからこそ、私たちは聖書のみ言葉に心を向け、イエス様が世に来てくださったことの意味を見つめたいのです。なぜなら、イエス・キリストの誕生は私たち人間の罪と深くかかわっているからです。もし、私たちが自分の欲望をコントローすることができるならば。自分のことばかりでなく人のこともしっかりと考え、行動を起こすことができるならば。そして、自分の考えや主張ではなく、神様の御心を大切にすることができていたならば、イエス・キリストは人としてこの世に来ることはなかったでしょう。神の座を降りて人としてこの世に来る必要などなかったのです。

パウロはこう記しています。「1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。

1:4 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。1:5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」

神様は私たちを愛しておられます。かけがえのない大切な存在として互いを認め合う関係を求めて、神様は私たちを創造してくださいました。しかし、人間は神様との信頼を壊してしまいました。自分がほしいものを手に入れること、自分の思いが実現することばかりを追い求め、神様との信頼関係を壊してしまったのです。しかし、そのような私たちを神様は愛し続けてくださり、その関係を修復するためにイエス・キリストをお遣わし下さいました。神様との関係を壊してしまった人間ですが、私たちはイエス・キリストによって神の子としていただいたのです。

パウロは続けて記します。「1:6 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。1:7 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」

神様の恵みの中を生きるようにと、御子イエス様の十字架、そして、死を通して私たちは贖われ、罪をゆるしていただきました。パウロはこの御子の血による贖い、罪の赦しを心から感謝して受け止めていました。それは、彼自身、自分の罪と向き合っていたからです。パウロはローマの信徒への手紙7章にこう記しています。

「7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」

パウロは何が良いことか、何が悪いことかを知っていました。そして良いことをしたいと願っていましたがそれを実行することができず、反対に望んでいないにもかかわらず、悪いとわかっていることを行ってしまう、とパウロはつづります。パウロは思っていたでしょう、こんな私は神に見捨てられてしまうと。こんな私は神に愛される価値などないと。しかし、パウロはダマスコの町にある教会を迫害するために向かうその途上で、復活のイエス様と出会います。この体験を通してパウロはキリストによって示された神の愛を知るのです。その愛は、敵を愛する愛でした。良いことをしたいと願いながらそれを実行することができない弱い者を赦し、愛する愛でした。それはまさに一方的な「恵」としか言いようのない愛なのです。

パウロは記します。「1:8 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、1:9 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。1:10 こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」

対立を超え、キリストのもとにすべてが一つとなること、それが神の計画です。私たちが、恵のうちを生きることができるうようにと、神様はそのご計画によって御子を私たちの世にお遣わし下さったのです。経済の支配、マモンの神という偶像によって、クリスマスから追いやられてしまったイエス様をもう一度、主にある交わりの中心に置かれた飼い葉おけの中に迎えたいと思うのです。私たちの心の真ん中に迎え入れたいと思うのです。そして、私たちの罪をゆるし、神の民としてくださったイエス様への感謝をもって、主なる神様を心からたたえるクリスマスを共にお祝いいたしましょう。

-祈り-

主なる神様、あなたの導きの中でここに呼び集められ、共に礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

主よ、あなたは御子イエス様を世にお送りくださいました。そして、私たちに大きな恵みをくださいました。それは罪あるものを愛し、神様にふさわしくないものを神の民としてくださるという「恵」です。

この恵みをくださるために、イエス様は人として世に来てくださいました。そして、「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と、イエス様は教えてくださいました。これこそがクリスマスの恵み、神様のくださったかけがえのないクリスマスプレゼントです。主よ、この「恵」を伝える器として私たちをお用いください。

この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

ー聖書ー エフェソの信徒への手紙 1章8節~10節

1:8 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、1:9 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。1:10 こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。